会員シリーズ

協会について

会員シリーズ

過ぎし日を語る すぎさりし日々

馬場 昭次
アーキテクトSHO

自分の歩みを振り返っても、立てた目標には及ばなかったし、目立った事も起きませんでした。そんな中で特に探せば、阪神淡路大震災が起きて、耐震診断、耐震補強の設計をしたこと、趣味で言えば50 歳ぐらいから本格的な絵を描いたことくらいです。

絵を描くことは小中学校の図画工作、美術の授業、マンガをまねて描くぐらいでした。高校では、音楽の方を選びました。特別なことは何もしていませんでした。やがて大学に入学し建築を学び始めました。絵を描くことの出発点はこの頃だろうと思います。建築の研究会に入り先輩からの話を聞く、建築雑誌を見る、雑誌に掲載された建物を見に行く、美術館や社寺仏閣、文化財の建物を見る、絵や彫刻を鑑賞する、スケッチをするために出かけたりしました。頭の中は建築、芸術でいっぱいになっていました。ただそれは、建築の基礎作りのためのものでした。

大学生活も終わり、就職し10年間は建築の施工会社に勤めました。しかし、施工は自分には向いていないし、やっぱり設計の仕事がしたいし、設計の仕事はしたことも無かったのに設計事務所を始めました。無謀とお叱りを受けるようなことをしました。

当時パーソナルコンピューター(以下PC)が一般に出始めた頃で構造計算は手計算からPCになっていました。簡単に考えて始めたけれども、そう簡単には問屋がおろしてくれるはずがありません。建築士会の構造分科会や事務所協会の先輩方々に、色々と無理を言い教えて頂いて、何とかこなすことが出来ました。遅ればせながら感謝申し上げます。図面は住宅の確認申請の図面をかなり描きました。

そんなある日、あの阪神淡路大震災が起きました。建物も想定を超えた被害に合いました。建物の耐震性が不足しているということになり、耐震診断、耐震補強が急務とされました。この頃より、公共団体からの指名も頂き設計を独学で基礎から勉強しました。無謀です。ぶっつけ本番です。反省しても遅い次元です。しかし、国土交通省の基準書籍等に助けられてこなす事が出来ました。

設計らしい仕事が少し出来だしたころ、土木のコンサルからパースの依頼が舞い込みました。そのころパースもPC で描く時代に入っていました。その仕事は透明水彩で着色したラインパースを描きました。でも、もう一つ満足出来ない。大学時代には、廊下に貼り出されたことも有ったけれども。そして、絵画教室に通うことになりました。どうせ習うならパース目的ではなく、建築に結びつくアートとして習おうと思い、油絵教室を見つけました。5年ほど通いましたが、建築に繋がるようなものでは有りませんでした。

それから、もう絵は止めようと思い、筆を置いていました。そんな折さぬき市の絵画同好会の人から日本画の絵画教室があることを聞いて軽い気持ちで絵を描きに行きました。
もう絵を描くのはこのぐらいで良いと思っていたのに、香川県美術展覧会に出品することになりました。洋画では二度出品して二度落選でしたから、もうほんとに、これで最後と思っていました。結果はなんと県知事賞と言う最高賞になりました。それまで私は、絵画といえば、19世紀後半、20世紀初頭から後の印象派絵画や抽象絵画と思っていたのに普通の写実絵画を描いたら、最高賞になって大変驚きました。

それから、次の年は無鑑査、そのまた次の年は知事賞と立て続けに賞を貰って県展の招待作家になりました。審査員もさせて頂きました。さぬき市展も招待作家になり、審査員を3度続けています。全国公募展は日展の春開催の日春展に3度入選しました。現在は「旅」をテーマに、旅情のある風景を描いています。

建築に繋がるかと思い絵を描き始めましたが、写実絵画を描いています。お蔭様で身体は健康なので、これからも建築することや現代的、デザイン的な幅広い絵を描くこともして行こうと思っています。