Top会員投稿2015年8月

2015年8月アーカイブ

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 牧野直樹

若かりし頃
牧野直樹
牧野直樹
((株)香川県建築住宅センター 代表取締役)

建築課営繕
 子供のころから物を作るのが好きで、あまり進路に悩むこともなく、工学部の建築学科に進学。卒業時にはすっかり建築好きの青年になっており、設計の仕事に携わりたいと考えていた。しかしながら、世の中はニクソンショックの影響で全般的に不況であり、特に、建設業界はその傾向が強かった。設計事務所の求人は少なく、一方で 当時の著名な建築家の設計した建物(丹下健三氏の県庁舎、県立体育館、大江宏氏の文化会館、丸亀武道館、芦原義信氏の県立図書館等)が数多くある香川県の建築に魅力を感じるとともに瀬戸内海歴史民俗資料館を設計した山本忠司氏に憧れていた。
 そんな折、大学の恩師が「牧野君、就職どうするの」、「設計事務所を希望していますが、香川県も考えています」「私、山本さんと知り合いだから、紹介してあげるよ。一度、県庁に行ってきな」と名刺の裏に紹介状?を書いてくれた。「先生、県庁は試験があるんですけど」「いいから、いいから」山本課長にアポイントを取って、県庁まで出かけたが、忙しい課長は不在で会えずじまい。大切な紹介状?をどうしたか、今となっては記憶にない。こんな経緯はあったものの、試験を受けて県庁に就職することになった。
 建築課に配属となって、憧れの山本氏と初対面、それまで建築の雑誌などで顔写真は拝見していたが、実物は、体が大きい、身長も胸板も、顔もでかくて彫りが深い、手の指も太い、とにかく圧倒された。後に、三段跳びでヘルシンキのオリンピックに出場したと聞いて、妙に納得した。
 建築課の一般営繕係で仕事をすることになったが、そこでは主に学校や住宅以外の県有施設の設計、工事監理を行っていた。一年生の職員にも小さいながらも、新築や増築の仕事を任されており、税金を使ってする建築を私のような若造に自由にやらせてもらえていいのかという不安もあったが、任せてもらった喜びが大きかった。
 当時の建築課はかなりの大所帯で、若い職員が多かったこともあってか、活気にあふれていた。また、多くの職員が他の人が担当する建物の計画に興味を持っていた気がする。図面を描いていると製図版の周りに人が集まってきて、「なんでこうするん、それならこの方がええのとちがう」と色々な質問やアドバイスをもらった。計画の整理や悩んでいる時の解決に貴重な環境だった。
 とりわけ記憶に残っているのは、川井稔氏が当時の係長で、初めて描いた図面を持っていくと「ちょっとここに座れ、図面はこうかくんや」と青焼きの矩計図に、赤のボールペンで訂正を、その結果、図面は見事に真っ赤になった。また、小さな体育館を任され立面計画に行き詰っていたとき、山本課長に「ちょっと図面を持ってきて、こんな感じでどうかな」と青焼き図に赤鉛筆でチョッチョッとスケッチ、目からウロコだった。
 営繕担当を8年、その間、2年ほど高松高等技術学校で建築科の教師をしたが、図面を描くのが楽しくて仕方のない時期に、上司や先輩、同僚、設計事務所や建設会社の皆さんに恵まれて、密度の濃い、有意義な時を過ごさせていただいた。

建築課建築指導
 昭和58年から7年ほど建築指導を担当、それまでは、建築の技術者として図面を描いていればことが足りる狭い世界にいたが、同じ建築の世界とはいえ、まったく性質の異なる仕事をすることになり、少しは行政の世界に足を踏み入れた。
 建築確認の審査・検査やホテル、旅館、物販店舗などの防災査察などが主な仕事、それまでの仕事では、特定の人との付き合いに限られていたが、付き合う相手が色々な設計者や建築主などに飛躍的に拡がった。
 ちょうど瀬戸大橋開通を控えた時期で多くの建物が建設されたが、特に琴平町周辺では大規模なホテルの確認申請が集中し忙しかった記憶がある。
 また、この仕事に携わってしばらくすると、法律は一般的な建物をモデルに規定を定めているが、実態は千差万別、画一的に法律の規定に合わせるよう求めることに疑問を感じ始めた。法律の趣旨を考慮したうえで、申請者の方にその趣旨や安全性の確保の必要性などを納得していただき、如何に落としどころを見つけるか。ダメなものはダメではあるが、考える余地のあるものは相手の意向を踏まえて解決方法をアドバイスするよう努めた。そうすることで、行政に携わる者の自己満足に陥ることなく、多少なりとも遵法意識の向上に寄与できると考えていた。
 振り返ってみると、昭和の時代は、どちらかというと建築することに軸足があって、無確認建築や違法建築のやり得意識があり、完了検査率も低調であったと思われるが、現在は、社会の法律に関する意識が向上したこと。住民の方の権利意識が高くなったこと。建築物の周辺環境に及ぼす影響などへの関心が強まったことなどから違法建築を許さない気運が格段に強まったと感じる。世の中の法律を守ろうとする意識に隔世の感がある。

その後の県庁
 平成に入って、住宅課、建築課、建築指導室、都市計画課...と次々と異動、バブル時代の大規模県有施設建設ラッシュや建築基準法の大改正、丸亀町の市街地再開発事業などに取り組んだ。その都度、組織内での立場が変わり、徐々に建築の一技術者から行政マンへシフトして行った。仕事の質も図面を描くことから関係者への指導・助言、組織の管理・運営に変わっていった。
 振り返ってみると、建築に関わる職場で様々な仕事をさせていただいた。その時々で多くの人々に支えられ、長いようで短い県庁生活であったが、思い返せば、若かりし頃の体験の印象が強く残っていた。

香川県建築住宅センター
 県庁を退職後、平成24年5月に株式会社香川県建築住宅センターに就職。
 これまで利潤を追求することのない役所の生活から、株式会社の経営に携わることになった。
 センターは主に住宅の建築確認・検査、住宅性能評価、住宅瑕疵担保責任保険などに関する業務を行っているが、多くのお得意様にお付き合いいただき、これまで経営は安定している。これも偏に平成12 年の会社設立以来、役員や社員の皆さんの努力の賜物と感謝している。
 ある人から「牧野さん、あんたは運がええな、ええ時に社長になっとるわ」といわれたが、おっしゃるとおり、県庁を退職するタイミングで入社し、会社は順調に利益を出しております。たまたま、こういう時期に社長に就任しました。
 引き続き、皆様のご要望に的確に対応することで、建築士事務所協会の皆様を始め、多くのお客様に末永くお付き合いいただき、この「運」をずっとつかんでいたいと考えています。今後とも、香川県建築住宅センターをご愛顧いただきますようお願いいたします。


|

南緯0度の夜空

大北 和則
大北 和則
(有)住空間設計

 皆さんはインドネシアについてどんなイメージがあるのでしょうか。赤道直下の国で高温多湿、発展途上で人口が多い、観光地が多い等さまざまな印象があると思いますが、それは当たっているけど少し外れているというのが正解だと思います。

img-02-002.jpg  インドネシアの人口は約2億3千8百万人(2010年)国土面積190万km2、それに比べ日本の人口は1億2千8百万人(2010年)国土面積37.8万km2となっている。単純な人口密度の比較で言えばインドネシアの人口密度は日本の約1/3となる。行けども行けども家が無く人に会えない道が続く。赤道直下はスマトラ島の中央部のみで、国土は北緯10度~南緯12度に位置する。それでいて日本の夏より暑くなく、日射は強いものの湿度は低く木陰に入ると驚くほど涼しい。発展途上でもあるが、ジャカルタという大都会があり、日本と変わらぬ生活がある。観光地も無論あるが、それ以上に工業生産国としての地位を確保している。天然資源も豊富で農産物の自給率も100%以上である。したがって国家としてのプライドが高く完全に自立している国なのです。

img-02-003.jpg ところで、もしあなたがこの国で仕事をしようとするとき、中途半端な気持ちではできないことに直ぐ気付くことでしょう。行動するためにはまず、信頼できる仲間がいること、政治的に信頼ができる相談者がいること、私は中途半端な気持ちでここにいるのではない、という気持ちが理解されていることが絶対的な条件になります。
 私が最初にインドネシアに渡ったのは2年前、単純な憧れからでした。「暖かい国でのんびりと設計の仕事ができたらいいな」的な安易な気持ちがそのスタートでした。今でもそのときの気持ちは残っていますし、それが理想です。でもそんな甘い気持ちは最初の半年間でもののみごとに吹き飛ばされてしまいました。

img-02-004.jpg ビジネスにおいては日本ほど融通が利く国民はいないことが良く分かりました。価値観、商習慣、宗教観等の全てがあまりにも違うのです。それが理解できるまでに相当な経費を費やしました。その後ここまでは誰もが通る道、と自分に言い聞かせ挫折せずにこれたのは、やはり仲間の存在が大きかったのだと思っています。そうなってから最初に思ったことはまず一緒にやってきた現地スタッフが生活できるようにしようということでした。建築とは直接関係無いこともしました。当時、他の人が私を見下ろしがちに「一体何やっとんですか?」と言うことをよく言われました。今から思い出すと恥ずかしいことも当時は一生懸命でしたから、特に何にも感じず只々「責任があるんで」と弁明していたことを思い出します。

 現在は自分の夢のルートが出来つつあると言えばいいのでしょうか。まだまだ道半ばではありますが、希望の光も見えてきています。「前進あるのみ」この言葉がぴったりの人生になってしまいました。一番最初に渡ったインドネシア、スマトラ島のジャングルで見上げたなんとも言えぬ美しい星空が、自分の未来を物語っている気がして子供のように胸が高鳴り高揚したことを忘れないよう、仲間とともに頑張って行きたいと思うこの頃です。

img-02-005.jpg

|

年末恒例 北浜アリーの餅つき(^^)!

井上 輝幸
井上 輝幸
T・Rアーキテクチュアル・コンサルティング(株)

 北浜アリー(通称)は、食料品等の港湾倉庫群として戦前にJAが建てました。
 当時は倉庫前の岸壁に貨物船が横付けをし、小麦粉など食料品等が保管され、各所に配送され賑わっていたようです。
 当倉庫は5棟が連なっており、棟毎に区切られています。木造平屋建て、トラス組真壁造、梁間10.80m、軒高9m、奥行き36m、内部は白の漆喰壁、90センチ間隔の柱と筋違が壁に表れ、天井無の大空間は他に類を見ないものです。
 屋根はセメントスレート葺き、波型鉄板スレートの外壁は、幾星霜の潮風と風雨に晒され赤く錆びついています。海上の波のざわめき、行き交う船の臓腑に響くエンジン音、遠くに聞こえる汽笛。
 そして倉庫の赤錆の壁、それぞれが重なり合い、見事なハーモーニーとなって哀愁を誘います。
 20年前、此の貴重な文化遺産を保存すべくJAの了解の元、井上商環境設計(株)・代表 井上秀美氏が開発を行い、県内外の優秀なテナントを募集、現在は、飲食店(イタリアン)、美容院、ショットバー、カフェ、雑貨店等が営業しています、井上氏自らも、JAの元寄宿舎をリフォームし、雑貨+カフェ(ナージャ)を営業し常に話題を提供しています。
 北浜アリーの醸し出す、独特のノスタルジックな雰囲気が反響を呼び、開発当初から、雑誌の表紙、テレビの取材等に再三取り上げられ、不動の観光スポットとして県内外の観光客が来訪、食事もできる、デートスポットとして終日賑わっています

img-01-002.jpg  恒例の≪餅つき≫は中国蘇州の煉瓦を敷き詰めた北浜アリーの中央広場(通称煉瓦広場)で毎年、年末に行います。参加者がついたお餅を、ボランティアの方々がその場で、ぜんざい・雑煮を拵え振舞い、小餅のお土産もついています。
 毎年参加者は増えているようです(昨年600人~700人)一般参加の他に著名な国会議員の先生、歴代の県知事、市長、又、サッカーのカマタマーレの選手たちが、子供達と一緒に餅つきを楽しみ、賑わいに華を添えています。会場には餅つきの他に、各島々より新鮮な野菜、イチゴ等の直売もあります。

 更に、たこ焼き、うどん等の屋台もあり時間を忘れそうです、最近は太鼓ショーがあり、幼い子供が大人に交じって秀抜の演技をしており、思わず見入ってしまいます。
 来客の駐車場の整理、会場の設営、ゴミの回収等は、全てボランティアの方々の協力により行われ、人と人との心の温かさが胸に沁みわたります(ボランティア 北浜男組 代表後藤氏)餅つきは、古来より日本文化の一つとして継承されてきましたが、店頭で出来合いの餅が並ぶようになり、それにつれて各家庭で行わなくなったようです、それ以前は各家庭で、又、親戚縁者が集まり年末の恒例行事として行われておりました。
 新年を迎える為の儀式でもあった様です。

 北浜アリーでは、失われつつある大切な日本文化の、餅つき、を広く継承しようとしています、親から子へ、その子から子へ伝わっていくことを願って・・・

 チケット 1枚− 500 円(ぜんざい、雑煮、小餅)

img-01-003.jpg

|
  • TOP
  • 県民の皆様へ
  • 建築士とは
  • 建築士事務所とは
  • 建築士事務所協会会員
  • 協会会報 さぬき
  • 会員作品集
  • 良い家を建てるには
  • 設計から建築まで
  • 苦情解決業務
  • 会員の皆様へ
  • 行事・講習会
  • 連絡事項
  • 委員会
  • 協会概要
  • 協会概要
  • 入会案内
  • 賛助会
  • 賛助会
  • リンク集
  • 香川県建築設計協同組合

このアーカイブについて

このページには、2015年8月に書かれた記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2014年6月です。

次のアーカイブは2016年8月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。