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地盤改良工法の開発について

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中島 徹
(株)コンパース相談役
(株)エルフ代表取締役

 ラップルコンクリートに代わるブロック状の 地盤改良(エルマッド工法)について、2009年3月(財)日本建築センターより建築技術審査 証明BCJ−147を取得致しました。
苦労話などを報告する機会を与えて頂いたことに感謝し筆を取ります。
最初に建築設計を本業としていた私が何ゆえ基礎工事(地盤改良)の施工をすることになったのか、その経緯を少し。

  昔、重量のある製品を造る機械製造工場の床版を設計していたときのこと、良好な砂礫(N値50以上)の支持地盤がGL−3m付近にありその上は軟弱地盤で単純な土間では設計できず、仕方なく支持杭を打ち地中梁でつなぎ、単純にスラブで設計し簡単に済まそうとしたのです。
しかし20トン超もある製品が移動するため、スラブは厚く梁は大きくなりとても不経済な設計になりました。原因は杭先端の支持地盤が良好で、杭の支持力が高すぎるからで、わずか3m下の支持地盤に力を流すため、地中梁を介して回り道させたのが原因です。「力は回り道が嫌い」なのです。そこで当時出始めの柱状地盤改良杭を3m前後のグリッドで配置し、地中梁をやめFEMを使いスラブのみで設計すると、すっきりした図面になり満足していたら、なんと柱状改良杭の値段が高く、PC杭と地中梁をあわせた金額をはるかに上回ってしまい、驚いたのと同時にどう考えても納得できない。

 泥にセメントミルクを混ぜて柱状にしたものがそんなに高いのはおかしと思い、知り合いの杭施工業者に相談したら案の定非常に安くでき、それに気を良くして柱状改良を設計に取り入れるようになったのですが、現場を見ているとそんなに甘い物ではないことを思い知らされることがたびたびです。

 そのひとつが地中障害物です。大きなコンクリートガラや転石、ひどいときは産廃が出たりです。それらは当然地表面から見えない、キリが途中で入らなくなるので、バックホーを用いて大きな穴を掘りそれら障害物を取り除き、選別した土だけを埋め戻し、再度杭芯を出し直して最初からやり直しです。

 そんな無駄な作業を見ているうちに、せっかくバックホーで穴を掘ったのだからその穴を埋め戻す時にセメントと水を加えてかき混ぜたらそれでいいではないか、と大胆にも考え始めたのがそもそものきっかけです。それからが苦労の始まりでした。

 攪拌混練するためのバケットを試作したり、市販品をさがしたり悪戦苦闘を繰り返し、おまけに固化対象の土はほぼ無限のバリエーションを持っているうえ、多量の湧水が出たり、産廃、油分を含んだ土など、なんでもありです。ひどい時には木造家屋一軒分とか自動車を解体したあとそっくり埋めてある土地も経験しました。

 しかし支持地盤を目視確認でき、また攪拌混練状態も目視しながら計器に頼らず改良体を造成できることに満足していましたが、ある時期から人の勘や目視よりも数値管理し、記録が残る工法が求められるようになってきました。抵抗しても時代の流れには逆らえません。

 ①バックホーに取り付けたバケットミキサーの先端がドロドロの改良体の中を移動し、その軌跡をオペレーターがモニターで把握し記録を残すことが要求され、さらに何をもって改良終了とするのかとの難題を突きつけられノックアウトです。

 そんな装置はどこの建機メーカーにもありません、しかし耐震偽装事件後はこれを解決しない限り、日本建築センターは審査証明を発行してくれません。

 バックホーにはブーム、アーム、バケットとある長さを持った可動部分があり、ブームとアームの角度はその回転中心に電気的に角度を読み取るエンコーダーが付いているものもあったが、バケットの回転中心は条件が過酷で繊細な弱電部品は取り付け不可能です。

 もし取り付けができたとしても回転角と可動部分の長さから演算するのではバックホー本体が作業中少し傾くとバケット先端では大きく誤差が生じます。

 必死に考えていると、ある時ふっと思いついたのです。

 可動部分それぞれに3個の傾斜計を付け地軸との絶対角を読み取り腕の長さからバケット先端位置を演算すればよいと。この方法の長所はバックホー本体が少々傾いても精度よくバケットの先端位置を特定でき軌跡も描くことが可能だ、と言うことです。

 更に傾斜計だから可動部分の回転中心でなく、どの位置に取り付けてあってもいいし、おまけに密閉した箱に入れておけるのでバケットと一緒にドロドロの改良体の中を移動させても十分耐えられる。これで何とか解決できました。

 ②については、改良体の中にセメント系固化材が均等に分散すると電気比抵抗値がほぼ10Ω〜20Ωを示すようになるとの知見を得て、センサーを自作しバケット先端に取り付け、移動軌跡上の抵抗値を色分けし、リアルタイムでモニター上に表示し改良終了の判断基準とすることにより何とか問題を解決できました。

 あとは攪拌羽根の回転数は近接スイッチで、回転トルクは油圧を読み取るなど既存の技術の組み合わせで十分でした。

 やっと建築センターに見てもらえる状態になったのですが、試験の為の供試体の採取を手でモールド管に詰めていたのも、作為性がありだめで、深度方向上中下三箇所を無作為に採取しなさいとのこと、これにも四苦八苦しながらやっと空気駆動のサンプラーを開発し、ぎりぎり審査にこぎつけました。

 宇都宮の関東ローム層での立会い試験も無事終了しセンター評定を取得できましたが一難去って又一難、解決しなければならない問題が立ちはだかります。

 センター物件はフレコン(トンパック)を使えずセメントミルクを注入し混練することが条件なのですが、現場にセメントサイロとミルクプラントを設置しなければならず、既存のシステムを使用すると大きなコスト負担となり小規模の工事にはとても適用できません。それではセンター評定を取得した意味が無くなります。

 どうしても超軽量で簡単に設置、撤去が可能なセメントミルクプラントが必須です。この開発にはほぼ10年かかりました。作っては壊しの連続で諦めかけた時期もあったのですが、技術革新しか我々零細企業が生き残る道は無いと念じて、やっと最近ほぼ満足のいくシステムが完成したところです。今後の課題は攪拌混練時に添加水量をできるだけ絞り固練りを目指すこと。またこの改良体を使った鉄骨柱の掘っ立て工法の開発、設計上は改良体と原地盤の複合した基礎をFEMで解析し、合理的な設計を目指すことも考えております。

 やりたい事はたくさん有りますが一歩ずつでも進んで行きたいと思います。



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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 武田美治

太公望

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㈳香川県建築士事務所協会賛助会
会員 武田美治
(武田建設株式会社)

 「釣り好きは短気」と言われる。狙っている魚が 釣れないと、場所を変え、潮を待ち、仕掛けを変え、 餌も変え、それでも釣れないと、竿を変え、リール を変え・・・。ずいぶんと費用のかさむ遊びである。 しかし、当の本人は娘の離乳食のためだとか、ばあちゃんにおいしい魚を食わすためだとか、勝手に思 い込んでいるので、罪悪感はない。いつからこんなにも釣りに" ハマッタ" のだろう。決して私の父が 釣り好きというわけではなかった。逆に父は殺生が嫌いだった。壇ノ浦の料亭で出てきた車エビを海岸まで持って行って逃がしてやったとか、加工場の鉄筋の上に糞をする鳩を捕まえては大歩危までトラックに積んで離してやったりしていたのをうっすら覚えている。思い起こしてみると最初の釣りの経験は、 小学生の低学年の頃、木太町にあった田んぼの用水路で手のひらぐらいの鮒を釣ったのが快感の始まりだったと思う。昔は雨が降れば現場を休むこともあった。小雨の降る、けれども明るい午前中、現場から帰ってきた親戚の小島鉄筋の社長に竹の延べ竿 (ガイドもリールもない先にテグスをくくりつけただけの釣り竿)を貸してもらい、加工場横の田んぼの畦でミミズを掘って釣りに行った記憶がある。もちろん今はコンクリートの用水路になっているだろ うが、50年近く前の田んぼの用水路は古き良き時代の趣があった。会社から歩いてすぐの場所だったと記憶しているが、着いてみると何人か釣りをしている人影があった。教えられるままに竿を川面にかざ し、精一杯の力を込めて竿を握っていたと思う。ウキが沈み、突然手のひらに伝わるブルブルとした感覚。忘れられない一瞬だった。 

 釣り好きのことを「太公望」というらしい。ネットで調べてみると、その昔、中国の渭水で釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えたという話に由来するとされるらしい。この故事にちなみ、日本では釣り好きを「太公望」と呼ぶ。江戸時代には「釣れますか などと文王 側により」という川柳も作られている。一方、中国で「太公望の魚釣り」と言えば、「下手の横好き」と言う意味が込められているという。小学生の時のこの経験が私を 「下手の横好き」にしたのは間違いない。 

 中学、高校と釣りには縁のない生活を送っていたが、たまたま知り合った友人が私に輪を架けたような「下手の横好き」だった。当時オキアミという南氷洋でとれるエビの冷凍が売り出され始めた。小学生の頃から、魚の餌はミミズだと思い込んでいたが、 この魔法のオキアミを岸壁からパラパラと撒きながら釣るとおもしろいように魚が釣れた。朝日町の突堤でチヌの入れ食い、庵治の河口でグレの入れ食い、 壇ノ浦の東岸でグレとチヌの入れ食い等々。高松周辺の釣り場はほとんど頭に入っていた。スズキの良く釣れるとっておきのポイントでは、「釣れますか」 などと人が寄ってきても、魚が掛かっているリールをフリーにして「いや釣れませんわ」などとやっていたと思う。 

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 釣り好きの私が就職したのは東京の同業大手。しかし赴任先は海の無い埼玉県。日曜日に釣り堀に行 くしか無いが、鮒なんぞは小学生がミミズでも釣れると思っていたから、馬鹿らしくて釣り堀には行く気がしなかった。入社して1年ほど経った時当時の 親方に誘われ、渋々近くの釣り堀に行くはめになった。餌はマッシュ(練り餌)。仕掛けの手ほどきを 受け、いざヘラブナに挑戦。しかし釣り堀の魚はスレていて(人間が釣り 上げては逃がすので) なかなか釣れない。いや全く釣れない。隣で近所の中学生とおぼしき子供がピシッと釣り 上げる。最初はまぐれ、 まぐれと思っていたが、三枚、四枚と差を付けられると「ウッ!」 と焦る。短気な太公望は仕掛けをいじり、餌の練り具合を変えて挑戦するが、隣の子供は順調に差を広げる。屈辱的な日だった。釣り 堀の親父がやってきてもニッカズボンにパンチパーマの作業員風には声を掛けてこない。 一緒に行った親方と二人ボウズで(一匹も釣 れないこと)退散した。 帰りの車の中で「中学生の持っていたウキがいいウキだった」とか 「ハリスが太すぎた」とか「場所が悪かった」などと言い訳してもやっぱり悔しい。帰りにはいつもの釣具屋で練り餌を何種類も買いそろえ、次の休みに備えたものだ。釣りは「ヘラ鮒に始まりヘラ鮒に終わる」と言われる。その後も何度も挑戦したが、2 年間でついに、くだんの中学生には勝てなかった。 何でもその釣り堀でも5本の指に入る強者らしい。 勝てない勝負は気が乗らない。埼玉の後半は、もっ ぱら一人で野池に通うようになった。もともと食えないヘラ鮒には興味が涌かないのだと思い込むよう にした。 

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 3年ほど海釣りに遠ざかっていたのだが、なにも埼玉で仕事と釣りばかりしていたわけでは無い。 ちゃんと結婚にもこぎ着けた。新婚旅行は言わずとトローリングのできるハワイとした。細君には申し訳ないが、新婚旅行の思いでは、一番は最初で最後 のトローリングだった。朝6時過ぎ、ビールやサン ドイッチを買い込みチャーターしたクルーザーに女房と乗り込んだ。船の名前は「KAHUNAKAI」な ぜか、未だに忘れない。狙うはマーリン(カジキマグロ)。あちらの小説に出てきそうな顎髭を蓄えた船長が固い握手で「グッドラック!」夢にまで見たマーリンに会えるのだと信じていた。これまで私は 船に酔ったことが無い。瀬戸内海はもちろん、室戸 岬沖のうねりの中でも平気だった。しかし、港を出 て1時間くらいでハワイ島は見えなくなり、360度の水平線。海の色は絵の具を絞り出したような紺碧。周りに舟影は見えない。当たり前だ、マーリンのシーズンでは無かったのだ。しかもハワイ沖のう ねりは半端ではない。3時間の容赦の無いローリン グで不覚にも完璧に酔ってしまった。心配なのは自分より船に弱い女房だ。フラフラしながら奥の女房 に声を掛けようとすると、えっ?涼しい顔でサンドイッチを頬張っている。こちらが声を掛ける前に「だ いじょうぶ?」・・・そうだ!女房はヨット部だったのを思い出した。それ以来未だに頭が上がらない。 大量に買い込んだビールは船長とクルーが旨そうに飲んでいる。その時だ、2本流していた疑似餌の一 つが「ジーッ」と大きな音を立てた。金髪のクルーは私にファイティングチェアーに座れという。カジキマグロ用の剛竿とペンの両軸リールを抱え込むよ うにして座り込んだ。いよいよファイトだ。鉄筋で鍛えた全身に力が入る。D51を持ち上げるほどの力を込めて竿を立てる。「あれっ?」何とも簡単に竿は90度に立った。夢にまで見たマーリンもこの程度であったか!クルーはさかんに「マヒマヒ!」「マ ヒマヒ!」という。ハワイ語ではマーリンのことを そう呼ぶのかと思ったが、なんとも弱々しい響きではないか、しかもえらくリールが軽い。クルーはもっ と早く巻けという。言われるままに100mほど巻き 取った時奥からあの船長がギャフ(魚を引っかける道具)を持ってきた。いよいよだと思った瞬間、船長が言った言葉を生涯忘れない。「アウチ!!!」私は そのマヒマヒの背中しか見ていない。船長がギャフ を打ち損なったのだ。すぐに呆然とする私の方を向 き返り「アイムソリー」それぐらいの英語は私でも分かる。しかし日本語の「なにやっとんや!どあ保」 がとっさに英語で出てこない。こんな事ならもっと真剣に勉強しとけば良かったと思ったが、とっさに出た言葉は「ノープロブレム」だった。情けない。 後で分かったが「マヒマヒ」は「シイラ」のこと。 そんなものなら小豆島でも釣れる。都合のいいこと に私が釣り逃がした魚を女房は知らない。その夜レストランで「マヒマヒのステーキ」を注文し、噛みついてやった。 

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 結婚後、長女が誕生して高松に帰った。ヘラ鮒もマーリンもいらない。やっぱり瀬戸の小魚が釣っても食っても最高だ。私は長女の離乳食をガシラの煮付けと勝手に決め込み仕事が終わってから、よく釣行した。ヘラ鮒ほど難しくないし、マーリンほど力がいらない。おかげで3人の子供は全員が魚好きになった。子供はどんどん成長し、ひとり、ふたりといなくなった。今はローリングにめっぽう強い細君と二人。釣りにもあまり行かなくなった。日曜日に近くのスーパーで買ってきた塩鯖が手軽でおいしい と思う。太公望は「下手の横好き」趣味として、たまに竿を担いで、気の合う友と気軽に釣行できれば満足。年を重ねると、もちろん体力は衰え、ゴルフボールも飛ばなくなっ た。味覚も鈍くなり、 目も薄くなってきた。 しかし小学生の時に初めて味わったあのブルブルとした快感は、今も全く変わらない。太公望万歳。 


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日本ERI(株)高松支店そして隠居

日本ERI(株)高松支店そして隠居

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元日木ERI㈱高松支店長
鈴 木 正 典


 昨年11月に栗林公園に無料で入場できる権利を取得した。平たく言えば尚齢者の仲間入りをしたということである。
 この現実を肯定、県庁とERIの長いサラリーマン生活にピリオドを打つことにした。 この原稿が本誌に掲載され、皆様のお目にとまる2ヵ月後には悠悠自適の日々を送っているはず(?)である。

【入社】
 ERI入社への道は、県庁在職時の平成16年5月にERI広島支店長と名乗る人物の突然の訪問を受けたことが発端である。
 高松に支店を開設したいので、支店の経営に参加しないかというものであった。 当時まだ退職後の確たる計画は無く、隠居するか、もし働くとすれば、私自身が設立に関わった香川県建築住宅センターになるのかな、という程度の漠然としたものであったが、時期も早く、適当に話を聞いた程度であった。
 11月に2度目の訪問があり、それ以降の波状攻撃はかなり熱心であったが、設立に関わった会社の競合会社への就職には抵抗感もあり、色よい返事は出来なかった。
 そのうち、岡山県庁の建築職で私の知り合いが退職後岡山支店を開設して成功しているとの情報がもたらされた。
 当人に電話で様子を訊<と、「その気なら結構面白い仕事だ」とのことであり、また支店開設に参画できるタイミングはまず無いこともあって、最終的にお世話になることになった。
 県庁卒業の翌日(平成17年4月11」)には入社し、支店開設までの間、岡山支店へ実務研修に通いながら開設準備を進めていた。
 ERI職員としてデビューしたのは5月の士会高松支部総会で、初めての営業は慣れぬこととてなかなか難しかったのを記憶している。
 県庁時代は役人という立場から、民間の方たちとの付き合いは私的な感情等を極力排除した硬いものであったと思う。
 入社を考慮していた時は、それが裏目に出はしないかと心配したものであるが、皆様暖かい方達で、過去の私の至らなさをおくびにも出さない大人のご対応を感謝したものである。
【支店開設】
 支店の場所が決まり、スタッフも揃い、7月1日にいよいよ支店開設の運びとなった。 当初は確認業務のみでのスタートで、実質5
人というこぢんまりした職場であった。
 馴染みの無い名前の所為か、当初出足は悪かったが、そのうち忙しくなり、例の姉歯事件が起きた頃は、私自身でいえば昼間は現場検査、帰ってからその事務処理、確認部長として確認等の決裁、そして事務系の決裁など、退社は毎日10時11時というハードな日々であった。
 民間とはいえ、まさかこれほどとは思っていなかったが、入社した以上こなすしかないとの思いから皆で頑張った時期であった。

【大事件】
 その年の11月18日に国土交通省が前日発表した構造計算書偽装事件(いわゆる姉歯事件)に関する報道が大々的になされた。
 大事件の幕開けであり、2年後の基準法改正につながる建築界受難の時代の始まりである。
 
 当社への影響は薄いと高を括っていたが、競合会社から当社が隠蔽したとの発言があり、社長の記者会見また国会国交委員会での参考人招致と騒ぎの真っ只中に据えられてしまった。
 報道後直ちに社内の構造担当で組織したチームが計算書の正否、手口等につき検証を開始、結果としてプログラムの不備をうまく衝いた非常に巧妙な偽装が発見され、通常の審査では発見できないレベルであることが判明した。
 当社に非は無いと思われたにも関わらず、従来正しいとされてきた審査方法で良しとはせずに、法の手当てを待たず、直ちに再発防止に向け審査方法の改善を開始したことには感心したものである。
 現に、改善策を実施したため、労力。時間・費用を含め経営的にはかなりの負担となった。
 にもかかわらず、翌年に確認業務に関して不届きこれ有りとして、一部業務停止の処分を受けたことは、さらに大きな痛手となった。 言い訳をする気は無いが(実はしようとするときの常套句)、当社のみならず他機関・行政も含めて確認審査の手法は全国一律のものとして認知され、運営されてきたものである。
 そもそも確認審査は法制定時から・・・。
 という堅い話は肩がこるし、自分の浅学を露
呈することになるのでやめておく。
 翌19年の基準法改正、また20年のサブプライムローン問題、さらに21年のリーマンショックと立て続けに大きな事件が発生し、私の入社以来の5年間、建築界にとって安定した経営状況を維持することが困難な時期だったと思う。
 「行政から民間へ」と、まるでどこかの政党のお題目の字面そのものの転進をした私にとっては、民間の厳しさを味わった日々であった。
 支店開設2年後には支店長としての重責を担うことになったが、能力に疑問符の着く身にとっては、皆様の暖かい視線や他部局からの応援また支店職員に支えられてやっとこなしてこられたというのが実感である。
 
 実際、高松支店が苦境の際、数多くのお客様に助けていただいたことが非常に有りがたく思い出される。
 かといって苦しい事ばかりではなく、民間ならではの貴重な経験.楽しい体験も沢山させてもらったのだが、誌面の都合で割愛する.
【隠居】
 4月にはサンデー毎日の世界が待っているのだが、さて何をして生きていこうか。
 県庁退職より大分前に、ある席で先輩方から「隠居するまでには趣味と友達をものにしろ」との助言を頂いたことがある。
 その時は大丈夫と思っていたが、少し前までと状況が変わったことに気がついた。
 前に本誌で紹介させていただいたが、私の趣味の経歴は種々取り混ぜて十指に余り、その中で長く続いたものが合唱とテニスである。
 その魅力は素晴らしい和声に出会えることであり、青空の下でのナイスショットであるが、それが長く続いた理由を考えると、どちらも雑多な職種の人たちの集まりで利害関係が無く、程良い人間関係があることであろう。
 飲み友達として、また家族同士での付き合い等、楽しい仲間がそこにはいるのである。
 座右の銘は「継続は力なり」。
 しかし、さすが民間は想像以上に忙しく、合唱もテニスも無縁の日々である。
 座右の銘は5年以上のご無沙汰でお題目のみとなり果て、隠居するそのとき、楽しい仲間は快く迎えてくれるか?復帰できる力は残っているか?などと思い悩む昨今である。
【ご挨拶】
 在職中は皆様には大変お世話になりました。 こうして無事卒業できるのも一重に皆様のご温情によるものと感謝いたしております。
 本当にありがとうございました。
 これからも日本E RI高松支店をご指導ごご愛顧賜りますようよよろしくお願い申し上げます。

 


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ものごとの真理を考える旅

ものごとの真理を考える旅

大 北 和 則
 ㈲住空間設計
 

 
 今から約10年前にその旅は始まりました。独立して間もない頃でしょうか。本誌掲載の寺院建築の依頼があってから私の奮闘は始りました。
そもそも宗教とは全く縁がないものとして、自分の力の足りなさを実感しながら不安と焦りのスタートでした。そうは言っても縁あって依頼されたこと自体、選らばれのだと勝手に自分の気持ちを鼓舞させ、その当時から長丁場であることへの覚悟を決めました。

 だれでもがそうであるように、分からなければ聞くまでのこと、まず最初にしたのが仏門におられる方の法話を聞くことから始めました。それは真言宗にとらわれず宗派の違う方からのお話を聞くこともしました。そのことで宗教の奥深さと自分のやるべき方向が漠然にも見いだせたと思っています。
 とはいえ具体的にどんな形を考えるか、それは過去の建築物に頼るしかありませんでした。年に一回しか開帳していない国宝とか、それに匹敵する建造物を丹念に調べました。霊場を回ったりもしました。宗教的な教義と造形美を考え、最初に形を出せたのは依頼されてから約2年が経っていました。当初から仏教の教義を形にするということが目標であったためにかけた時間でした。
 この一連の作業では中国にも渡っています。弘法大師が渡った中国という視点で体験するということ、中国産の石材を検証するということが主な目的でした。このことによって自分の力の足りなさとか、綿密な造形に対する執着とか感じていた不安感は融けていきました。中国の大陸的な風土とかそのバイタリティー溢れる人間性に仕事を通して触れることによって、自分が想像できる世界のその上に別の世界があって、それを一瞬でも感じた時に自分は動かされるということを実感しました。中国での出来事が現在も自分に影響を与えていることを実感します。
 
 10年もかけても良いという仕事はそう滅多にあるものではないと思います。諸般の事情があったにせよ、自分に与えられた最大の機会であることへの感謝は忘れることができません。今回の仕事を通して得たものは地味ではありますが、人間の心の根幹にかかわる卓越した世界観と、その仕事を通して得られた人々との縁であったと確信しています。お世話になった方々に改めてお礼を申し上げます。
 

2010年第41号 寄稿


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一(会員シリーズ)過ぎし日を語る--小 竹 義 孝


(会員シリーズ)過ぎし日を語る---

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小竹興業㈱会長

 小 竹 義 孝

 

 私が学生生活に終わりを告げ、社会に第一歩を踏み出したのは、昭和38年、東京オリンピックが開催される前の年でした。 新幹線も整備され、首都圏では地下鉄や高速道路が次々と拡張され、高層ビルも立ち並び、建設業界は、正に、高度成長時代の先端を行く業種として、最盛期の年でした。建設業界では、特に、公共工事において、庁舎、町村役場、学校などが、木造から、鉄筋コンクリート造に建て替える時期でして、当時は、「生コン」も無く、「ポンプ車」も無く、現場練りのコンクリートを「タワー」を建て、「ウインチ」にて吊り上げ、「カート」車にて打設し、躯体を築き上げていく時代でした。仕上げの仕様に関しては、サッシはスチールOP、外壁はモルタル塗リシン吹き付け、内壁はモルタル鏝押さえVP、床はモルタル鏝磨きPタイル貼り、というのが、一般的な仕上げで、左官工事が、建物の精度良否を判定する大きな要因を占めていました。


 私の卒業論文は、「左官工事における人間工学的研究」というテーマでした。建築工事も、昨今では、仕様が大きく変わり、左官の作業量も少なくなりました。外壁はカーテンウォール、内壁は軽鉄下地のボード張り、天井は軽鉄下地のボード張り、床はOAフロアー等、「左官工」の出る幕はほとんどありません。私が、この業界に入ったその当時は、壁、天井、床など、内装の仕上げの精度は、左官工の技能に大きく圧し掛かり、いかに、職人がその技能を発揮し、粘度の良い、きちっとした、いい仕事をするかによって、建物の良否が評価されたものでした。左官工は、経験と器用さが必要な大変難しい業種ですが、特にその作業は全身を使って作業する過酷な重労働です。人間の人体機能には、それぞれ限界があり、首はここまでしか曲がらない、手首もこれ以上曲がらない限界角度があり、腕、腰、足などそれぞれ、これ以上曲げられない限界があります。「左官工」の職人は毎日、この体を駆使して作業をしています。「左官工」の一連の作業の流れを調査する為、当時私は約一ヶ月の間、人手業者の作業現場に入れてもらい、「左官工」が壁にモルタルを塗る作業、床を鏝押さえする作業、また天井にプラスターを塗る作業、等を毎日毎日ビデオに収録し、例えば左官が壁にモルタルを塗る場合、鏝を持った手首の角度はどの角度が最もも無理が無く、効率よく作業しているか、床を押さえる場合は腰の角度は、どの位置が長く継続できるか、梁下プラスターを上向きで作業する場合、腕の角度はどの角度が一番効率が良い動きなのかなどムダ、ムリ、ムラの無い動きを分析し、作業効率、精度、持続性を高める為の資料を作成しました。何とかレポートをまとめ、卒業することが出来ました。


 その後、左官工事における実技の冊子に取り上げられ、「日本左官業組合連合会」の技能講習会の資料として、左官上を目指す若者に利用され、技能向上に貢献したと聞きました。
 IT情報化社会の今日、建築業界もこの半世紀の問に大きく変遷し、建物は軽装化され免震構造、超高層へと技能よりもIT技術の時代になってまいりました。しかし、いつの時代になっても、建築の造形の本髄は、大工や左官など技能の集大成であり、継承していかなければならないと思う

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気ままの札所めぐり パートⅣ

気ままの札所めぐり パートⅣ

 

植田くに子

(株)日本アートグラフィック

 

 

『植田さん、あちこち車でいってるんヤなぁ』

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過ぎし日を語る

過ぎし日を語る

(株)植原建設一級建築士事務所

代表取締役会長 植原博文

 

少年時代、間があれば野山をかけ廻る、

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建築活動とパソコンの功罪から得たもの

会員シリーズ 過ぎし日を語る

 

建築活動とパソコンの功罪から得たもの

 

(株)西崎組一級建築士事務所 

管理建築士 西崎 博史

 

私とコンピューターとの出会いは40年前

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思 い 出

思 い 出

桑崎隆敏
元東エシヤッター㈱

 協会関係者の方々、賛肋会の皆様、長い開お欽話になり有難うございました。
 昨年(2008年)12月で退職しましたことを本誌をお借りしましてお伝えし御礼申し上げます。 又これからもお会いする機会もあるかと思いますがよろしくお願いします。
 私は1942年の午年生まれです、44年間のサラリーマン生活にピリオドを打ちました。
 最初はヤンマーに人社し転勤族で25年問、徳島、束京、長野、山形で過ごし色々な地域で若い時代、色々な人にお世話になり良いこと悪いこと含めて勉強させて頂きました。又それぞれの地域で沢山思い出をいただきました。
 今思うと特に30代半ばから40代半ばにかけてはハードな毎日で、家庭を振り返る時間もなかった様な気がします。
 しかしこの時期が仕事上でも人間形成においても大きく成長できたのではないかと思います。
人生のある時期に仕事を夢中になっているとチャンスとピンチが同時期に来ていたと、今考えるとそう思います。
 色々な勉強会、研修会、会介、等々めまぐるしい日々の連続でした。 そのような中で自分自身が自然と謙虚な気持ちになり、何事にも動じず自信を持って行動が出来るようになりました。
 すなわち自分の色々な問題に取り組むスタンスが出来たのです。それからは社員教育から会社経営も思うように出来始めました。
 そのような時、突然家庭の事情で高松に帰らなければならなくなりました。
 そして何も知らずに この業界に足を踏み込んだのです。
 建築用語も知らない、意味も理解できない、価格面についてはなぜこうなのか理解しがたいものでした。
 そこで色々考えた末このままではだめだと思い、まずはより多くの人に会うことを優先して行動計画を立てて行動しました。
 そして多くの人々に助けられて業績を上げることが出来るようになりました。
 それからは遊びもゴルフ、酒、マージャンと、どんどんやりました、そこで又付き介いが広がり協力いただける人が増えました。
 又 色々な会合にも積極的に顔を出し勉強もさせていただきました。

 こうして高松に帰っての19年間が終わりました。しかし人間死ぬまで勉強だと言われますが、今本当にそう思います。


 

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趣味・水彩風景スケッチの楽しみ

趣味・水彩風景スケッチの楽しみ

 

宮脇賢弘
宮脇建築設計事務所

 スケッチに関心を持ったきっかけは、ある病院のロビーに飾られていた、山里の古民家を描いた何点かの水彩スケッチに魅せられてぜひ描いてみたい思いにとらわれた。とは言うものの絵については全くの素入、何から始めれば?。
 さいわい什事柄、構図とか遠近法等は何とか成る、ところが彩色に付いては上不く行かず自信を無くした。そこで、NHK文化センターの水彩副教室に入門する事とした。

 いざ現地スケッチに出掛ける。わくわくとした気分で、目的地に着くまでは、今日は何を描くか思いを巡らす。最初は思った様に上手くいかない。何回か回数を飛ねる内に何とか思った物が表現できる様に?

 現地スケッチでは同好会のメンバーと批評しあったり、また次はどこに行くかをあれこれと打合せをするのも楽しみの一つである。


 何時か行って描きたいと思うのは、世界遺産の白川郷・富山五箇山の合掌造り・京都美山町の萱葺古民家等である。

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