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過ぎし日を語る 私の旅たち

白石 雄三
白石雄三建築設計室

昭和44年、福岡の工業高校建築科2学年が終業し、長い春休みに入り私は友達と一緒に福岡の天神に建設中の16階建てホテルの機械設備工事のアルバイトに行った。春休み後半となり一緒にバイトした友達ともう一人の友、3人で関西方面に旅をする。教科書に紹介された大阪千里ニュータウンと宝ヶ池の京都国際会議場を見学するのが旅行目的の建て前であった。

3学年になり私は鉄骨系プレハブの住宅を主流とする企業D社の就職試験を受けた、筆記試験の後に5人の合同面接での質問でアルバイトについて質問を受けた。バイトの内容と得た報酬の使い道を尋ねられ、前記の事を回答したが以降の質問が自分に集中した事を記憶している。そして幸いにも6月にはD社の内定を頂いた。

寝台特急『あさかぜ』

翌年3月卒業後、D社の新入社員研修開始日の前の日、博多駅ホームで家族や友人達に見送られ、午後5:00発寝台特急『あさかぜ』に乗車したが、出発のベルが鳴り列車がホームを離れた途端寂しさが込上げ涙が止まらなくなったことを今でも鮮明に覚えている。寂しさと不安が入交った気持ちだったのだろうか。

東京着は翌朝9時30分上野駅から常磐線に乗換え佐貫駅下車、関東鉄道竜ケ崎線で終点竜ケ崎迄乗車して、研修所がある竜ケ崎工場へ向かった。

北関東の内陸部に位置する竜ケ崎の3月はまだまだ朝の冷え込みは厳しく、身体を振るわせ霜柱を踏みしめながらのラジオ体操で研修の1日が始まる。

新人研修は1週間程度で、終了の前日に赴任先が決まり、私は四国支店設計課の辞令を受けた、翌日研修は最終日となり解散後、それぞれ赴任地へ向かう。

赴任迄には休日を挟み1日の猶予があるので、東京在住で小学生時代の幼馴染と再会した。その幼馴染の友がどこでも案内するよと言ってくれたので、前の年に『超高層のあけぼの』の映画をみて感動した霞が関ビルをリクエストした。

彼は今でもメール等にて近況を伝え合う小学校からの親友である。夕方に彼と別れ夜行バスで大阪に、もちろん大阪から西には新幹線や瀬戸大橋も無く、そこから急行鷲羽で宇野まで行き、そして連絡船に乗換え初めて四国の土を踏んだ。

D社四国支店は当時中新町にあり、設計課は住宅設計の担当、一般建築の担当及び構造選任や積算の担当に事務の女性を含めて17名の組織であった。相対的に若い者が住宅、経験をつんだ先輩達が一般建築を担当していた。

配属から1カ月も経たないうちに赴任時の設計課長は本社(大阪)へ転勤され、入れ替わりに赴任された課長は当時まだ29歳で実質的に私の社会人として最初の上司であった。その頃その上司から指導を受けたのは、一つの考えにたどりついた時、なぜそう考えたのか、その根拠を求められ、とても良い勉強の機会を与えてもらったと思う。又その他課員の多くは20代で、テキパキと仕事をこなされ、私自身が数年後このように成長するには相当な努力が必要だと感じた次第である。しかしまたアフター5となれば、皆で食事に行く事等も多く、良くも悪くも非常に影響を受ける事となった。このような家族的な雰囲気の中で夏には女木島でキャンプ、私より1年先輩と2人で先に島へ行きテントを張り、皆が終業後来られるのを待つ。春は栗林公園の開園に合わせ桜の下にシートを敷き花見の準備をして昼まで待つのも新人の役目である、この事に何の疑問も無い時代であった。

新入社員時代には課内のミーティングにおいて、課長は私によく質問を投げかける事が多かった、それも経験の少ない私に答えられないような内容の質問である。その事について5年程上のN先輩に(私は課長から嫌われているのですかね)と愚痴った事がある、するとN先輩は、『白石の1年と2年上には先輩がいる、その彼らに問いかけて答える事が出来なければ、後輩(私の事)がいるので恥をかかすことになる。だから一番下の白石に問いかけているのであり、それぞれの先輩方にも考える事を促しているのだから気にすることはない』と励ましてくれた。それよりも上司の気持ちを察しているその先輩のすごさに感心したものだ。

その後、私は入社3年目で二級建築士の受験資格を得ていた。当時は学科4教科と製図、を受けて科目ごとに合格すれば翌年からは合格した科目は免除される制度で、気楽な気持ちで試験に臨もうと思っていたが、試験の一月程度前の週末であろうか、退社する前にある先輩に呼びとめられ、先輩の席まで行くと、製図試験課題に合わせた練習問題を自作で造ってくれたりしてくれた。しかしこれには続きがあり試験の数日前、先輩達が2級合格の前祝と称して軽い宴を催してくれた、お開きの直前で『今日は合格の前祝い、もし合格できなかったら、今日の参加者全員集めて残念会を開けよ』と、その後プレッシャーのかかる激励会だった、この様な事も有り私も奮起して、この年に二級建築士になる事ができた。

しかしその上司や先輩達も数年後には転勤で高松から離れていかれて入社当時の設計課の家族的な雰囲気も段々無くなっていった。

それから数年が過ぎ、20代後半の冬の時期の事、技術屋として判断し取った行動に対し工事関係のトップから不合理な叱責を受けた。納得がいかなかった私はその事を直属の課長に報告し、悔しくて退職も辞さないような話をしたが窘められてその時は思い留まった。

昨年で一級建築士の受験可能な経験年数は過ぎていたので受験を決意した。

既に結婚し家庭を持っていたが、その頃住んでいた所は3Kの狭いアパートで娘の誕生から1年が過ぎた頃でその子が寝てくれないと受験勉強もできない環境だった。会社から急ぎ帰り慌ただしく夕飯を済ますと、妻が夕飯の片付けをしている間に娘と共に入浴し、それを済ますと妻が入浴の間に私が娘の相手をし、妻の入浴後、9時頃で有ろうか、それから受験の勉強を始める、そんな日々が半年程続いたが幸いにも初受験で学科・製図共合格し一級建築士の資格を取得した。退職の申し出は撤回した訳ではなかったが所属課長と総務課長が本社へ働きかけて頂き一般建築への転属が出来る様になったので退職希望については撤回した。今でもお二人の尽力には感謝している。

それから5年程経過、すでに設計課長:総務課長共転勤され数年後、入社14年余りでサラリーマン生活に終止符を打ち現在に至っている。