Top会員投稿会員シリーズ

会員シリーズの最近の記事

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 富岡學

事務所協会と賛助会
富岡學
(一社)香川県建築士事務所協会
相談役 富岡 學
(有)富岡建築研究所

 私は48年前の1973年10月に大学院を中退し大江宏建築事務所に入社して社会人になりました。
 川の土手に雪が残るなか、座っているだけでいいから、と連れていかれたのが埼玉県境の三園浄水場でした。送配水ポンプ所・薬品処理所・活性炭注入所・ケーキヤードの上屋築造工事と管理本館の改修、建築設備工事の500日の常駐監理でした。
 東京都水道局西部建設事務所監督員詰所にある自分の机の引き出しは参考書で一杯で、巾木も本で知りました。柱主筋の台直しをガスバーナーでやっていたので、構造事務所の青木繁研究室を訪ねると、顔を出した人から片山設計の神原ですと言われ驚きました。
 現場からは有楽町の会社に毎日帰りました。地下鉄の高島平駅(当時は終着駅)まで2km近く歩き、途中のトラックターミナルで夕食を食べ、10時まで会社の仕事を手伝いました。1974年には三菱重工爆破事件があり、現場近くの会社のあったビルに帰るとEV ホールで会社名と名前を書かされました。
 多くの人との出会い、打ち合わせ、立ち合い検査があり、様々な経験が知識となりました。

img-01-002.jpg img-01-003.jpg img-01-004.jpg  香川県建築士事務所協会では賛助会のセミナーと工場見学会に参加していますが、製品・製造過程の知識を得られ、各工場敷地全体の雰囲気を体感できました。バス移動のでは、多くの施設の見学ができました。
 TOTO テクニカルセンター大阪の見学会では、カタログで見たトイレの使い勝手を体感できるバリアフリーラボの実物を見学できました。
 明石大橋を初めて通りましたが、淡路サービスエリアのトイレの上り側と下り側でTOTO とINAX を使い分けていました。
 平成20年のシンコユニ㈱の見学会では屋根材の製造ラインを見学しました。
 平成21年の武田建設㈱の見学会では工期短縮につながる折り畳み式の先組梁鉄筋を見学しました。
 平成22年の大建工業㈱岡山工場の見学会では初めて瀬戸大橋を車で渡りました。また、岡山が点字ブロックの発祥の地であることを知りました。
 平成23年の神戸にある吉野石膏の工場見学では神戸のハーバーランドも見学できました。
 平成24年の㈱日鋼サッシュ製作所の見学会では製造ラインが昼夜2交代制で制作されていることに驚きました。精神病院でも使われている刑務所錠が組み込まれた建具もありました。
 平成26年には四国化成工業㈱で私自身も採用した車感知自動開閉式の引き戸門扉を見学しました。
 平成27年の㈱請川窯業の淡路西淡町での見学会では製造ラインを見学後、昼食には明石海峡の鯛を食べ、淡路人形浄瑠璃を見ることができました。
 平成28年の一光電気㈱の見学会では分電盤の制作ラインを見学しました。
 工事監理をしている現場で工事施工者の協力会社が見学に行った会社だと安心を感じます。

img-01-005.jpg img-01-006.jpg

|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 菅善明

50年を振り返って
菅善明
菅善明
(株)菅組

 創立50周年、誠におめでとうございます。50年の過程で世の中の建築物が多面に亘り想像以上に変化した物件が数多く見られるのではないでしょうか。その変化を身をもって感じます時、諸先輩のご労苦は如何ばかりかと拝察いたします。本当にご苦労さまでした。
 私が建築業界に従事させて頂き65年の歳月が流れました。振り返ってみますといろいろな意味で多くの教訓を与えてくれた、大変恵まれたよき時代に身を置くことができたと言えるのではないでしょうか。その一つには戦中戦後の貧困の中で、人間の極限に近い生活も体験し、『窮して足るを知る』という言葉をも学びましたが、その後50年も経たない内にその教訓を忘れてしまいました。そして、バブル期から崩壊までの過程では、際限のない人間の欲望による帰着点を見ることができました。このことは人間本来の最も見苦しい弱点が露見されたのではないでしょうか。いずれにしましても得難い貴重な体験でした。その現実を子々孫々への教訓として伝えたいものであります。しかしながらこの教訓の他によく考えてみますと、大変不幸な出来事でありました太平洋戦争によるその戦後復興の道に再建の主役的役目を仰せつかったことによって、不謹慎な言葉かもしれませんが、不幸中の予期せぬ想定外の技術的な成長の要因になったことは万人の認めるところであります。以上のような経緯から見ますと、我々の家庭や国を思って頑張り、経済発展に寄与することができたことは業界の成長過程で良い勉強になったのではないかと思われます。その意味で、これまでは厳しいながらも精神的には大変恵まれた時代であったと思われます。変化の激しいこれから先を読むことは大変むずかしいことですが、建築業界に於ては世の中から要求されるごく限られた範囲の課題と対峙しながら解決に取組み、国民の安寧に資することが唯一の道ではないでしょうか。例えば、最近多発しております自然災害への対処、耐震、免震、耐火、耐風雨等々各関連メーカーも日進月歩で研究が進んでいると思われますが、具体的に申しますと浸透性の耐火塗料、コンクリートに弾性を加味する、積層ガラスへの冷気、暖気を注入した空調装置等々、それぞれの業務の中で実現可能な課題は身近にあると思われますので、それぞれの分野で研究に取組んで頂きより精度の高い建物を目指したいものであります。このような新建材、新工法については、常に現場最前線で活躍されておられます建築士事務所協会、又建築士会のみなさん方から毎日の作業の中から改良点を感じたことを提案して頂き、各メーカーにそのヒントを与えて頂くことが実現への近道ではないかと痛感いたします。どうかみなさん方の日常業務が建築技術の向上につながることを意識しながら頑張って頂きますようご期待申し上げます。以上、つたない文面になりましたが、私の歩んで来た過程で感じた事を記させて頂きました。どうか拙文をお許し下さい。
 結びに当り、香川県建築士事務所協会の益々のご隆盛と会員みなさん方のご健勝を心よりご祈念申し上げ、お歓びのことばに替えさせていただきます。


|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 北谷智志

多くの出会い
北谷智志
北谷智志
(株)香川県建築住宅センター 代表取締役

 (一社)香川県建築士事務所協会の皆様には、日頃より弊社をご利用いただき誠にありがとうございます。この誌面をお借りしまして、厚くお礼申し上げます。

 私、昨年3月末に県庁を定年退職しましたが、春先に数冊の名刺入れを整理していて、多くの方と出会ったことを改めて実感しました。人生は「出会い」の連続とも言われますが、これまでの61年余の「多くの出会い」を振り返ってみたいと思います。

 実家が高松の田町交番の近くでしたので、小中高まで徒歩10分程の狭いエリアで学生時代を過ごす中、多くの友人と出会いました。うち数人とは今でも定期的に飲み会を開いており、それぞれの業種で活躍している様々な話を聞き、時には相談に乗ってもらっています。特に世界的にも名の知れた日本を代表する企業の役員の話は刺激的で、島耕作ばりの想像もつかないことが色々と出てきます。また、大学は関東方面だったので、今でも付き合っている友人は埼玉県在住の建築系の1人だけですが、3~4年毎に会って、昔話に花を咲かせています。

 昭和56年に県庁に入って、建築指導、営繕の仕事をする中、職場や現場で諸先輩方から色々とご指導いただきました。建築関係の方(皆様)とも出会うようになり、何も分かっていない若い頃は、ご迷惑もおかけしたと思います。平成元年に都市計画課に異動になって、レオマワールドなどの大規模開発に関わるようになり、デベロッパーや土木関係の方とも出会うことになりました。当時はバブル全盛期で、お会いしたくない強面の方とも話さなければならないこともあり、冷や汗をかいたのを覚えています。また、この時に、どんな仕事でも楽しんでやる、何事も経験と割り切ることを学びました。
 その後は、再び建築指導、住宅行政、営繕の職場で、建築関係の方とお付き合いする中、県立学校の耐震改修や改築にあたっては、皆様に色々とお世話になりました。平成12年には、スウェーデン・デンマーク・ドイツに海外出張(「人と環境にやさしい街づくり」と題して140枚程のレポート書き、工芸高校前通りの歩道拡幅と自転車道整備、パークアンドライドの進め方、ラッピング広告の電車・バスや広告付きバス停による財源確保、レンタサイクルの拡大など今、実現している政策を提言しましたが、当時は取り上げてくれませんでした(笑))し、街づくりについて学ぶ中で、公共交通の大切さを認識し、市民団体にも参加、そこでも新たな出会いがありました。
 平成18年に再び都市計画課に異動、丸亀町の再開発に関わり、県庁内でもバトルを繰り広げましたが、助けてくれる上司に支えられ、何とか道筋をつけることができました。この時は、開発関係のコンサルや業者の方に出会い、また、小学校時代の同級生2人とも再会しました。今でもちょくちょく会っています。
 その後、住宅行政を経て、文化振興課で仕事をした平成24、25年の2年間が、一番多くの方と出会うことになりました。まず、県庁舎東館や丹下健三展の関りで、神谷宏冶、槇文彦、磯崎新、谷口吉生、伊藤豊雄氏など錚々たる建築家の方や、丹下健三氏の親族の方とお会いしました。さぬき映画祭では、本広克行、大林宜彦監督の外、ムロツヨシさんなどの俳優の方、亀山千広前フジテレビ社長など芸能関係の方ともお会いしました。また、橋本一仁四国学院大学教授など多くの地元文化関係者や芸術家との方とも交流させていただき、今まで気づかなかった多方面の知識を得ることができました。
 中でも谷口吉生氏とは、その後も何度かお会いする機会があり、東京の事務所にも2度ほどお伺いし、昨年初めには、模型部屋で現在建築中の「谷口吉郎・吉生記念金沢建築館」の模型を見せていただきました。(来年、見に行こうと思っています。)

img-01-002.jpg  平成26年から4年間は、営繕課で県庁舎東館の耐震改修がメインの業務になり、岡田恒男(財)日本建築防災協会理事長、松隈洋京都工芸繊維大学教授など多くの方にお世話になりました。今まさに工事の最中ですが、竣工を待ち望んでいます。また、建築のみならず、設備関係の方ともお付き合いさせていただきました。私、顔もでかいですが、その分、県庁生活では幅広くお付き合いさせていただき、上司、同僚、部下に恵まれ、37年間過ごすことができました。
 そして、昨年から、(株)香川県建築住宅センターにお世話になっており、会社経営の難しさを実感しながら、日々業務に励んでおります。ここでも、社員をはじめ、関係各社の方と新しい出会いが生まれました。

img-01-003.jpg  また、多くの建築と「出会い」もありました。やはり一番、県庁舎東館との出会いです。初めにも述べましたが、実家県庁と近かったので、幼いころは爺さんに連れられて南庭の鯉に餌をやりに行っていたのを覚えています。中高の時はピロティでだべり、大学の時は「地元の建築」という課題で東館のスケッチを提出しました。その後、東館で執務、見学者のガイド、耐震改修工事の発注と、人生の大半で関わり、改めて東館の魅力を再認識させられました。
 また、就職したころ、建築雑誌で出会った「土門拳記念館」。それ以来、谷口建築に取りつかれました。海外では、アスプルンド設計の「森の墓地」。言葉が出ませんでした。建築アルアルではないですが、美術館に行けば展覧会でなく建物を見る、旅行に行けばついつい建築に吸い寄せられる等々。その他、数多くの建築に接して、感じ、学びました。

img-01-004.jpg  単に出会った方・建築を羅列する中身のない文章になってしまいまたが、私がここまで来られたのも、これまで出会った皆様のおかげと感謝し、この稿を終わらせていただきます。


|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 髙岸秀樹

コクヨとの出会い
髙岸秀樹
広報委員会 副委員長
髙岸秀樹
(コクヨ山陽四国販売(株))

 (一社)香川県建築士事務所協会の先生方々には、平素より大変お世話になり、有難うございます。

 このたび、定年を迎え退職することになり、ご迷惑を掛けてばかりだったのですが、会誌『さぬき』に掲載の依頼を頂戴いたしましたので、ほんの少しの御時間を頂けますでしょうか?

 私髙岸秀樹は、前々の社名『(株)北四国コクヨ』に、1977年の20歳の時に入社いたしました。
 坂出工業高校を卒業して、坂出のとある造船に関わる会社に就職し、会社の費用負担で、川崎製鉄下請企業の職業訓練校のある岡山に、転勤を命じられました。職業訓練校を卒業したころに、「香川に帰れますか?」と上司に聞いたところ、「う・・・・ん」と首を傾げられたのです。それを期に、香川に帰ることにしました。当時は、長男が家を継ぐのが当たり前、という風習を真剣に思っていましたので。
 香川での職探しは職安で【トラック運転手助手】という職種の中に、『(株)北四国コクヨ』があり、体力には自信があったので面接の手続きをして頂きました。私の当時は、コクヨといえば、Campusノートという代名詞的なノートがあり文具の会社と思い込んでいました。なので文具製品を各販売店様に、日々、トラックで配達するのだろうと思っていました。採用して頂き、仕事に従事しますと、机・椅子・書庫などを組立て、お客様の事務所に設置していく内容でした。コクヨってスチール家具を売っているんだと、軽いカルチャーショックを受けました。
 コクヨの創業者:黒田善太郎が、明治38年に『黒田表紙店』を開業し、その後『黒田国光堂』と改め大正6年に、商標を『国誉』としました。くにのほまれ『国誉』が現在の『コクヨ』となっています。
 当初は、和帳であったり、洋式帳簿が主流製品でしたが、昭和35年よりスチール家具の製造に着手し業績を上げていき、現在では、売上高3,076億円(2016年)となっています。

img-01-002.jpg  話は戻って、入社当時は物流部門でいましたが、消費税導入前の1989年の3月は、駆け込み需要で毎晩1時、2時までの残業をしていました。当時は、ブラック企業という単語があったか、どうかはわかりませんが、同僚と苦しいけど楽しく日々の仕事をこなしていました。

img-01-003.jpg  その後、営業の先輩が一身上の都合での退職が決まり、1名欠員がでたので、営業部への配属となりました。当初はルート営業:担当エリアの販売店様への御用聞き的な営業で、毎日を気楽に過ごしていましたが、6年程経過後、特販部への配属になりました。
 この特販部は、設計事務所様へのスペックインとゼネコン様の組下工事、官公庁様への営業等々の活動内容となり、ルート営業では味わなかった苦労を味わう毎日となったのです。
 我々の業界で、1案件何億円となると超大型案件だと思いますが、忘れたくても忘れない案件が3件あります。
 ①:香川県立保健医療大学(現名)
   組下工事・施主発注合計 約2億越え
 ②:高松シンボルタワー(現名)
   組下工事・施主発注合計 約4億越え
 ③:三豊市市町村合併
   【金額でなく苦労した案件】
   ≪オフィス移転コンサルティング業務≫
   香川県内で弊社初のコンサルティング業務

 上記の3件は、胃に穴が開いたり、ストレスで手が震えだした案件です。それでも何とか完了したのも下記の黒田善太郎の教えがあったからだと思います。

img-01-004.jpg
経営の信條
 人は無一文でこの世に生をうけ父母の恵み、恩師の導き、社会のおかげによって心身ともに成長し、やがて社会に出て一つの仕事をあたえられる。それは天より授けられた天職である。天職には貴賤の別なく、人が生ある限り自らの全力をつくして全うせねばならぬ。天職を全うするには人の信を得ることが最も大切である。人に信を得る最善の道は、自ら誠をもって実行することである。真心をもって買い、造り、そして売れば、人おのずから信用し、人に信用を受ければ天職はおのずから全うしうる。誠心誠意不言実行――これが私の経営の信條である。

 この経営の信條の中に、『天職』という言葉がありますが、私にとって「この仕事が天職だったのかなあ」と、退職する日が近づいて気がつきました。
 リタイア後の就職先でも、『天職』だと思えるように楽しく仕事が出来ればなと、考えております。

img-01-005.jpg img-01-006.jpg

|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 尾崎真悟

建築文化から創造都市へ
尾崎真悟
(一社)香川県建築士事務所協会 賛助会
尾崎真悟
((株)香川県建築住宅センター)

 貴重な誌面をいただき、最近、思っていることを書いてみましたが、与太話になったことをお許しください。

 いろいろな場面で、建築文化とか建築の文化性といった表現を目にすることが多い。さらに、この表現を使うのは建築分野の人であることが多い。そして、建築文化って何でしょう?、と尋ねてもなかなか的確な説得力のある答えが返ってこないような気がしている。時々、文化財に詳しい方々から伝統的な手法、景観、歴史性の価値を懇々と教示いただくこともあるが、現代建築を設計、施工する実務者の立場からは少し違う気がする。
 文化とは何なのか、と思い調べてみた。国の文化芸術振興基本方針に、
 文化は、最も広くとらえると、人間が自然とのかかわりや風土の中で生まれ、育ち、身に付けていく立ち居振る舞いや、衣食住をはじめとする暮らし、生活様式、価値観など、およそ人間と人間の生活にかかわることのすべてのことを意味する。(途中、略)この文化の中核を成すのは、芸術、メディア芸術、伝統芸能、芸能、生活文化、国民娯楽、出版物、文化財などの文化芸術であると記されている。
 文化という大きなくくりがあり、その中のこれこれが主要な構成分野である、というような内容だと思うが、建築文化という言葉が出てこないし、建築をこれら文化芸術の活動の場、施設として捉えており、文化芸術の一部とは考えていないようである。敢て文化芸術の中に建築の居場所を探すとそれは文化財の建造物ということになり、先ほどの文化財の方の考え方は国の方針に沿っており全く正しいのである。
 しかし、現代建築は芸術性の高い文化である、と思いたい私にとっては戸惑ってしまう。
 いろいろ考えるに、日本では、人の思考、能力、専門分野や社会での活動を、理科系と文科系、科学・技術と文化・歴史など、いわゆるハードとソフトに分ける傾向がある。現代建築は、理科系で科学・技術のハード分野であり、ソフト分野の文化芸術ではないと見られているような気がする。
 一方、建築に関わる者は、おそらくこういう分野の境界を感じていないのではないか。
 これが、「建築の文化性」の説明もどちらの側の人間かによって、互いによくわからない、それは違うだろう的な状況になっている原因ではないだろうか。
 建築は、最初の定義に照らし、人類発祥から自然と関わり、生活の一部として存在してきたものだから、大きなくくりの文化であることは間違いないだろう。次に、現代建築は、意欲的な創造活動により生み出されるものであることから芸術と同じ位置付けであり、文化の中核をなす文化芸術でもある、と思う。

img-01-002.jpg 以前に、小豆島でアーティストと関わる仕事をしたことがある。彼らは、芸術家として自負があるが、建築に対しては敬意を表してくれる。その中の一人、米国人のJ氏が、「建築とアートは非常に似ている。違いは、アートは根幹が哲学であり、建築は根幹が数学である。」と語った。彼の作品は、建築の内外装のような作風である。建築の人も一度は彼の作品のようなことをやった経験があるのではないか。アートの世界もキャンバスに絵を描くことから、いろいろな空間の一部として表現する立体作品が主流になっている。建築への接近であるが、防災上や安全上のことはやはり建築の専門性が必要であり、コラボをしたいとも。彼の話から、建築家は微分積分ができる芸術家である、ということになるが、これは、建築の持っている芸術性を証明しているようにも思える。

 「で、どうしたいの?」というところで、次の段階として、「創造都市」である。

img-01-003.jpg 創造都市とは都市を創造するという意味ではなく、創造的な都市(クリエイティブ・シティ)という意味らしい。海外からの概念のようだが、日本では、建築分野での都市計画手法ではなく、芸術分野のアウトリーチのように捉えられている。
 また、「地域の活性化」が各地で叫ばれている。これもいろいろな形態があるが、アーティストを呼んできて一緒に創作活動をするというもの、著名な建築家の作品や伝統的建造物、伝統芸能などを核にして活性化を図るものなど創造都市を意識しているようにも思える。

img-01-004.jpg 都市の個性、形態として創造性を言うなら、本来は建築の手法であり、建築の得意分野のはずだが、なかなか現代建築の影響力が話題にならない。先ほどからのアートかサイエンスかということ以外に、建築は、莫大な工事費がかかり、建築家は実務上、コンサルタントか請負者の立場にあり、建築主(事業主)は別にいることが大きいと思える。
 そんな中で、個人的に注目しているのが、建築の意欲的な創作活動によるクリエイティブな匂いのする都市空間である。またまた抽象的で、分かりにくい表現を使ってしまうが、何らかのプロジェクトとして進められたと思われる現代建築の創造性を活用した、いわば建築色の強い創造都市がある。

img-01-005.jpg 横浜、神戸、尾道の街並みに実際に接してみた。都市再生というのかもしれないが、デザインされた都市の形がある。建築とアートのコラボもある。クリエイティブな匂いがする、何か落着く、居心地の良い空間を感じる。そこは、自然に人が、それも若者が集り、そしてにぎわっている。

img-01-006.jpg 横浜、神戸は都会だから一工夫するだけでよいのかもしれないが、尾道には驚いた。坂の多い、斜面からすぐ海といった街で、倉庫街のリフォームやウッドデッキの遊歩道だけではこれだけのにぎわいは作れないはずである。
 テーマは歴史文化の活用だそうだが、建築の創造性(文化芸術性)の匂いがした。もっと調べてみたい都市である。
 以上、ろくに調べもせずに感覚だけの事例紹介になり、それも港が好きなだけにウォーターフロントばかりになり、今後の課題が多い結果になった。

 一工夫ある設計、周辺環境や地域の特性へ配慮した設計、これらの積重ねが創造性あふれる都市につながるように思います。文化芸術としての建築、創造都市、こういった役割を担うのも建築士事務所協会の皆様ではないでしょうか、是非、頑張ってください。


|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 福本富雄

賛助会発足のころ
福本富雄
(一社)香川県建築士事務所協会 賛助会
顧問 福本富雄
(シンコユニ(株))

 平素は(一社)香川県建築士事務所協会賛助会の活動に御協力を賜り厚く御礼申し上げます。
 平成19年初めタカネ設計山上所長、森勝一建築事務所森所長、富岡建築研究所富岡所長、市原建築設計事務所市原所長の皆様から賛助会会員7社が呼ばれて集まりました。
 事務所協会山上会長より賛助会を「会として活動してもらいたい」と説明がありました。賛助会としては願ってもないことなのでその場に居た全員賛成しました。
 山上会長より「新年度に間に合わすべく賛助会会長を直ぐに決めて下さい」との事でしたが、集まった賛助会員皆が押し合いなかなか決まりませんでした。
 すると山上会長から「福本やってくれ」で出席者全員にも押され、固辞はしましたがお受けしました。
 引き受けはしたものの、何をどうすれば?さあ、困った!
 本会と相談しながら集まった各社にそれぞれの役を引き受けて頂き、取り急ぎ協会誌「idea」の組織表の印刷に間に合わせました。
 当時副会長を引き受けて頂いた東工シャッター桑崎氏、サンキ保子氏、日本ペイント市村氏が中心となり色々な協議を重ねてもらいました。

img-01-002.jpg 私は、会は皆で盛り上げ、賛助会に入会して良かった、と言ってもらえる会にしたいと思いまして、当時95社だった会員を増やす活動を続け、現在約128社にまで御協力を頂いております。賛助会の会員でも会社同士の面識がないようでしたので、全社出席を目的に合同委員会を開催し、本会との交流を図ろうと各委員会にテーマを作って頂き、協会の会長を始め各委員の先生方、専業の方々も出席して、終了後懇親会などで盛会裏でした。現在は秋に企画委員会の懇親ゴルフ大会、総務委員会の年2回ボーリング大会を行っております。賞品などは各社に協賛頂き、会を盛り上げて頂いております。技術委員会では本会で行なっていたセミナーを年3回引き継いで行っております。会員交流委員会では工場見学会を県外と県内を隔年で行なっております。

 昨年、会長を武田建設社長の武田さんに交代して頂きました。武田さんは大手建設会社の協力会の会長等多くの役職を兼ねており、益々賛助会を発展させていただける事と確信しております。
 私事ですが少し時間を作って業界の研修旅行に昨年はベルギー、イタリアに行って来ました。ブリュッセルの建材展では1万m2位の建物が7棟~8棟有り、木材から金属窯業、住設に至るまで資材ごとの展示ブースでとても1日では見学しきれません。職種柄で金属主体に木材窯業系を駆け足で見て回り、イタリアの世界遺産ナポリ地区、ポンペイ遺跡地域を視察しました。約2000年前のヴェスヴィオ山が爆発し一瞬にして火山灰に埋没した建造物の遺跡も見学しました。石畳の道路には歩道があり路肩の石には馬車繋ぎの穴があり、建物の内部の一部に彩色が残っている所もあり2000年も前にこれだけのものが出来る事の文明の高さに感動しました。
 世界一美しいといわれる海岸アマルフィ海岸を通り、白壁に円錐形の石積み屋根を載せた「トゥルッロ」が有名なアルベロベッロも見てきました。
 今年の建材展はドイツ、オーストリアでした。ドイツではベンツの本社・工場見学をしました。ボディのプレスラインでは12,000tのプレスでボディを絞り、何機もある40tの金型交換が8分だそうです。驚異の速さでした。
 ロマンティック街道を通りノイシュヴァンシュタイン城視察、最終日はウィーンで本場のオーケストラの演奏会に行きました。音楽は解りませんが圧倒される迫力です。しかも大半の観客が正装でした。急遽チケットが取れたので、こちらはジャケットのみの軍団で少々場違い気味でした。
 参加の度に外国の建物、文化に触れ日本との違いに驚かされ、日本もしかりですが、先人の知恵工夫の凄さに毎回感動しております。私ももう少し頑張ってみます。
 最後になりましたが(一社)香川県建築士事務所協会の益々の御発展と、会員各社の御繁栄を御祈念申し上げます。

img-01-003.jpg

|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 牧野直樹

若かりし頃
牧野直樹
牧野直樹
((株)香川県建築住宅センター 代表取締役)

建築課営繕
 子供のころから物を作るのが好きで、あまり進路に悩むこともなく、工学部の建築学科に進学。卒業時にはすっかり建築好きの青年になっており、設計の仕事に携わりたいと考えていた。しかしながら、世の中はニクソンショックの影響で全般的に不況であり、特に、建設業界はその傾向が強かった。設計事務所の求人は少なく、一方で 当時の著名な建築家の設計した建物(丹下健三氏の県庁舎、県立体育館、大江宏氏の文化会館、丸亀武道館、芦原義信氏の県立図書館等)が数多くある香川県の建築に魅力を感じるとともに瀬戸内海歴史民俗資料館を設計した山本忠司氏に憧れていた。
 そんな折、大学の恩師が「牧野君、就職どうするの」、「設計事務所を希望していますが、香川県も考えています」「私、山本さんと知り合いだから、紹介してあげるよ。一度、県庁に行ってきな」と名刺の裏に紹介状?を書いてくれた。「先生、県庁は試験があるんですけど」「いいから、いいから」山本課長にアポイントを取って、県庁まで出かけたが、忙しい課長は不在で会えずじまい。大切な紹介状?をどうしたか、今となっては記憶にない。こんな経緯はあったものの、試験を受けて県庁に就職することになった。
 建築課に配属となって、憧れの山本氏と初対面、それまで建築の雑誌などで顔写真は拝見していたが、実物は、体が大きい、身長も胸板も、顔もでかくて彫りが深い、手の指も太い、とにかく圧倒された。後に、三段跳びでヘルシンキのオリンピックに出場したと聞いて、妙に納得した。
 建築課の一般営繕係で仕事をすることになったが、そこでは主に学校や住宅以外の県有施設の設計、工事監理を行っていた。一年生の職員にも小さいながらも、新築や増築の仕事を任されており、税金を使ってする建築を私のような若造に自由にやらせてもらえていいのかという不安もあったが、任せてもらった喜びが大きかった。
 当時の建築課はかなりの大所帯で、若い職員が多かったこともあってか、活気にあふれていた。また、多くの職員が他の人が担当する建物の計画に興味を持っていた気がする。図面を描いていると製図版の周りに人が集まってきて、「なんでこうするん、それならこの方がええのとちがう」と色々な質問やアドバイスをもらった。計画の整理や悩んでいる時の解決に貴重な環境だった。
 とりわけ記憶に残っているのは、川井稔氏が当時の係長で、初めて描いた図面を持っていくと「ちょっとここに座れ、図面はこうかくんや」と青焼きの矩計図に、赤のボールペンで訂正を、その結果、図面は見事に真っ赤になった。また、小さな体育館を任され立面計画に行き詰っていたとき、山本課長に「ちょっと図面を持ってきて、こんな感じでどうかな」と青焼き図に赤鉛筆でチョッチョッとスケッチ、目からウロコだった。
 営繕担当を8年、その間、2年ほど高松高等技術学校で建築科の教師をしたが、図面を描くのが楽しくて仕方のない時期に、上司や先輩、同僚、設計事務所や建設会社の皆さんに恵まれて、密度の濃い、有意義な時を過ごさせていただいた。

建築課建築指導
 昭和58年から7年ほど建築指導を担当、それまでは、建築の技術者として図面を描いていればことが足りる狭い世界にいたが、同じ建築の世界とはいえ、まったく性質の異なる仕事をすることになり、少しは行政の世界に足を踏み入れた。
 建築確認の審査・検査やホテル、旅館、物販店舗などの防災査察などが主な仕事、それまでの仕事では、特定の人との付き合いに限られていたが、付き合う相手が色々な設計者や建築主などに飛躍的に拡がった。
 ちょうど瀬戸大橋開通を控えた時期で多くの建物が建設されたが、特に琴平町周辺では大規模なホテルの確認申請が集中し忙しかった記憶がある。
 また、この仕事に携わってしばらくすると、法律は一般的な建物をモデルに規定を定めているが、実態は千差万別、画一的に法律の規定に合わせるよう求めることに疑問を感じ始めた。法律の趣旨を考慮したうえで、申請者の方にその趣旨や安全性の確保の必要性などを納得していただき、如何に落としどころを見つけるか。ダメなものはダメではあるが、考える余地のあるものは相手の意向を踏まえて解決方法をアドバイスするよう努めた。そうすることで、行政に携わる者の自己満足に陥ることなく、多少なりとも遵法意識の向上に寄与できると考えていた。
 振り返ってみると、昭和の時代は、どちらかというと建築することに軸足があって、無確認建築や違法建築のやり得意識があり、完了検査率も低調であったと思われるが、現在は、社会の法律に関する意識が向上したこと。住民の方の権利意識が高くなったこと。建築物の周辺環境に及ぼす影響などへの関心が強まったことなどから違法建築を許さない気運が格段に強まったと感じる。世の中の法律を守ろうとする意識に隔世の感がある。

その後の県庁
 平成に入って、住宅課、建築課、建築指導室、都市計画課...と次々と異動、バブル時代の大規模県有施設建設ラッシュや建築基準法の大改正、丸亀町の市街地再開発事業などに取り組んだ。その都度、組織内での立場が変わり、徐々に建築の一技術者から行政マンへシフトして行った。仕事の質も図面を描くことから関係者への指導・助言、組織の管理・運営に変わっていった。
 振り返ってみると、建築に関わる職場で様々な仕事をさせていただいた。その時々で多くの人々に支えられ、長いようで短い県庁生活であったが、思い返せば、若かりし頃の体験の印象が強く残っていた。

香川県建築住宅センター
 県庁を退職後、平成24年5月に株式会社香川県建築住宅センターに就職。
 これまで利潤を追求することのない役所の生活から、株式会社の経営に携わることになった。
 センターは主に住宅の建築確認・検査、住宅性能評価、住宅瑕疵担保責任保険などに関する業務を行っているが、多くのお得意様にお付き合いいただき、これまで経営は安定している。これも偏に平成12 年の会社設立以来、役員や社員の皆さんの努力の賜物と感謝している。
 ある人から「牧野さん、あんたは運がええな、ええ時に社長になっとるわ」といわれたが、おっしゃるとおり、県庁を退職するタイミングで入社し、会社は順調に利益を出しております。たまたま、こういう時期に社長に就任しました。
 引き続き、皆様のご要望に的確に対応することで、建築士事務所協会の皆様を始め、多くのお客様に末永くお付き合いいただき、この「運」をずっとつかんでいたいと考えています。今後とも、香川県建築住宅センターをご愛顧いただきますようお願いいたします。


|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 宮武茂基

親を大事にせーよ
宮武茂基
宮武茂基
(日本ER(株)高松支店)

 今から四十数年前、高松市役所に入った時期、私の顔を見る度「親を大事にせーよ」と説教気味に云う人がいました。
 父の今は亡き友人で、一代で財産を築くなどバイタリティに富、人生経験豊かな人で、一言々がユーモアに溢れ大変為になる言葉を数多く聞かされました。

建築課
 市役所では、当初建築課にて市有建物のプランニング・実施設計・構造設計・積算・工事監理と一貫して一つの建物を任され、創造の楽しさとともに喜びを感じる毎日でした。
 また、設計事務所・施工者の方々にお願いしている案件についても連絡係として奔走いたしましたが、設計事務所、工務店の皆様方の輝いていたお姿が今でも鮮明に思い出されます。皆様若うございましたし、教えも頂きました。オイルショックの折には膝詰めの交渉もありました。あれから四十年、事務所協会総会等でお会いする度に当時の事が思い出されます。

img-01-002.jpg 建築指導課
 建築課十年経過後、今日の礎となる法律を扱う建築指導課へ配属となり、定年まで二十数年間の長きに渡る建築行政に関わることになりました。
 丁度新耐震構造基準が施行された翌年で、プログラム計算が世に出始めたばかりでした。構造担当として毎日が勉強で、構造設計者の方々とはよく対立しました。先の東日本大震災においては、新耐震建物の被害はなかったということで法律改正の効果がでています。
 その後、建築関係法の周知啓発、市民の苦情や違反等の対応に従事、そして建築主事として、更に都市計画法に関する開発許可にも関わり、人それぞれの生活を左右する重要な判断を求められることとなりました。
 建築指導課では、様々な人たちと関わりました。エゴの固まりで好き勝手な要求をする人たちには価値観を見いだせなかったが、真面目に事を進めている人たち、本当に困っている人たちの要求には、何とか実現していただきたいと思うわけで、法律の規制とどう折り合いをつけるかが問題となるわけです。
 ここで、父の友人の言葉が活きてくることになったのです。
 「事業をしていると、一生に一度は無理を聞いて欲しい事があり、その時に手を差し伸べると、その人の将来を活かせることができる。」
 法律は誰のためにあるのか、建築主、企業側(設計者、施工者)、規制する側にとってそれぞれの行為に対して身を守ってはくれますが、やはり建物により影響を受ける利用者、周辺の住民等の為に有るとの立場で判断すると、答えは自然に出てくるものではないか、このように考えるようになり、これが私のポリシーとなり、都度々状況に応じた解釈をしてきました。

img-01-003.jpg  「法律判断は責任を伴い、反面その人の度量が試される。」
 事件は突然にやってきました。そう、耐震偽装問題です。確認処分した計算書をすべてチェック、幸い高松市内には該当するものは有りませんでしたが、やはり建築主事、課の責任者として気は揉みました。その後確認申請方法が厳しくなって、現場の融通が利かなくなるなど、建築士の尊厳が大きく損なわれることになったのです。

ERI入社
 その熱りが冷めぬうち、市役所を定年退職し、現在の日本ERI株式会社に縁があって入社することができました。
 確認部長としてなら何とか務まるのではないかと入社したものの、半年後支店長を命じられ、市役所での経験が営業に如何に活かされるか考える暇もなく、営業に飛び込むことになったのです。
 しかしながら、心配の中多くのご支援を頂き、昨年、会社起業時からの方針であった東証一部上場を果たし、高松支店もその一翼を担うことができました。
 これも一重に皆様方のご支援の賜物でございます。誠にありがとうございます。
 今日まで私の人生も順調に事が運び、これも親・ご先祖さまを大事にしてきた結果かと思っておりますが、大事にしなければならない親とは、いままでお世話になった方々ではないのか。「お世話になる人は、皆親」
 人は人の支えがあって成り立っているもので、世の中、自分だけで事が進んでいるのではない。幾つになっても人の世話になる。ということを肝に銘じて、父の友人の言葉が思い出された次第です。

最後に
 現職に就きまして、早5 年が過ぎました。慣れない営業に苦労しておりますが、会員の皆様のご支援を頂き、今日に至っております。
 引き続き頑張って参りたいと存じておりますので、どうかこれまで以上のご愛顧のほど宜しくお願いいたします。

img-01-004.jpg

|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 岡敬郎

激動の時代をこえて−
岡敬郎
岡敬郎
(創建設計事務所)

(時代背景の変遷)
 事務所を開設した昭和42年当時は、新幹線の開通、また東京オリンピック開催後の好況期、更にその後の大阪万博も開かれて、長期にわたる民需の大変盛んな時代でありました。
 それ以前の勤務先では、建築に関する巾広い分野の指導を受けたお陰で、開設後の実務についてはなんら支障なく、新しい技術の吸収に努めながら、建築主の要望に応えられるよう新しい建物の見学会等に参加したり、また新しい材料等のカタログ集めも大切な仕事の一環でありました。現在のようなインターネットでの活用がまだの時代であり、知識吸収には大切でした。どこの設計事務所も壁面いっぱいに棚を設え、カタログで満杯であったと思います。
 その頃の製図道具といえば、T定規と三角定規が主流であり、三角スケールは、尺貫法とメートル法が混在していました。その後にドラフターが主流となり、つい最近まで使用されていましたが、現在ではCAD化されて二次元CADが主流となっています。
 わが事務所でも、平成8年に、積算も可能な三次元CADを導入したのですが、実務には不向きで、基本計画や日影図程度に利用したぐらいで高価な物でしたが廃止に至っています。現在では二次元CADの利用ぐらいです。

(建築士事務所協会の歩み)
 香川県建築士事務所協会の設立は、昭和46年であり、事務所開設時(S42年)から設立準備のお手伝いに若輩ながら参加させて戴きました。
 これにより既存事務所との交流も広がり、貴重な経験に基づく御意見、御指導を戴き、後々の自分自身の活動にプラスになる体験でした。
 その後、全国的に協会が設立され、日本建築士事務所協会連合会が発足し、第1回全国大会が昭和51年に東京で開催され、今年の三重大会で第37回となって増々活発になっています。
 第20回大会は(H7年)中、四国ブロック協議会の御協力のもと香川県で開催され、香川会の会員にとっては貴重な体験でした。
img-01-002.jpg第20回建築士事務所全国大会 香川大会開催

30周年記念式典に参集された方々に挨拶
 開催後、会員同士の結束も強固なものとなり一つの統一された方向性が生まれたのではないかと懐かしく振返っている次第です。
 平成12年に私に協会会長にと指名を受けて青天のへきれきの思いになりました。  就任早々には協会三十周年行事が行われ、右往左往でしたが、皆様方の大変なる支援協力をいただき、また私も全身全霊をかけて無事終ったことには今に深く感謝しているところです。
 平成17年には耐震偽装事件がおきて、大幅な法律の改正があり、建築士事務所にとっては受難の時代に入りました。
 建築確認申請時の添付書類の簡素化、計画変更の範囲の拡大解釈等、考慮は出来ないものかと願う思いです。
 建築士事務所を取り巻く現状は、大変厳しい問題が増えており、協会幹部の皆様のご活躍によって改善がはかられる事を願っている次第です。

全国よりの参加者でいっぱいの会場

|

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 市村健司

今迄のこと
市村健司
香川県建築士事務所協会 賛助会
市村健司
(日本ペイント販売(株))

 日頃は賛助会活動にご協力いただきまして、誠にありがとうございます。香川県建築士事務所協会 賛助会を設立し、5年目を終え6年目を迎えようとしております。時の経つのは早いものです。もうそんなになるのかと驚くばかりです。
 私も、仕事を始めて早38年目となりました。1975年に、四国ニッペ販売に入社し、配送業務等を半年ほど経験し、その後営業として活動するようになりました。当初は板金塗装関係の営業で、自動車補修業者への営業でした。塗料のことをあまり知らずに営業に出て行ったのでは困るだろうということで、或る補修業者に3日間ほど修行に行き勉強をさせてもらいました。その後営業を始めたのですが、笑い話しのようですが、面白かったのは、私が教わった業者に、翌日から質問を受けたことです。人間は不思議ですね、立場が変われば思い込みで何の疑問も持たず振舞うものなのですね。それから四国四県担当として各県に営業を始めました。当時は、パブリカトラックで出張、しかも今のように高速道路も無く、一般道を走っていく毎日でした。当時はクーラーも無く夏は暑い日々をすごしていました。
 それから数年し、建築塗料担当に配置換えとなり、建築塗装業関係のお客様へ訪問するようになり、経験を積んで、官公庁・設計事務所へもお伺いするようになりました。以前にも書きましたが、この事がゴルフを始めたきっかけでした。(未だに下手くそなゴルフしか出来ていませんが。)

sanuki_member_no43_01.jpg
sanuki_member_no43_02.jpg 次に、香川県の販売店と塗装店の担当となり、建築現場を訪問し営業活動にいそしみました。その頃は、車も良くなり、オートマチィックでエアコン装備となり移動環境はぐっと良くなってきました。(でも、成績は良くなかったかもしれませんが)その頃色々な著名物件にも携わることができ良い思いでとなりました。
 高松空港・猪熊源一郎美術館などあり、現場の視察で、長野・東京・山形・東京ディズニーランドなど建物見学にも行きました。こんないいこともありましたが、レオマワールド建設時、設計管理会社に塗板の依頼を請け作成していましたが、建物数が多くまた、使用する色も派手な色ばかりで、枚数が多く、台風の中で全員早退する中一人居残り塗板作成をした記憶があり懐かしい記憶です。これほど多く作ったので、塗板で充分建物の外壁を覆うことが出来たと思います。また、その頃携帯電話が少し小型になり発売され始めた頃で、持っている人も少なかったですね。現場で緊急時は持っている方に借りた覚えがあります。

sanuki_member_no43_03.jpg 平成9年に四国ニッペ販売から日本ペイント販売と社名変更し、場所も高松から宇多津町へと移転することとなりました。これには参りました。通勤距離が家から18Km であったのが、42Km と倍以上となり大変でした。しかしこのおかげで早起きするようになり良かったかなと思います。しかし三文の徳はあったかどうか?
 しばらくし、建設担当ということで、遮熱塗装工事・耐火塗装工事・住宅塗替も行うことになりました。
 そしてあと数ヶ月で、第1ステージ終了です。
 これから、第2ステージですが、色々な道をゆっくり考えようと思います。
 今日まで、協会の先生方、諸先輩方、今まで知りあえた方々のお世話になり、育てていただき本当にありがとうございます。まだまだこれからも長い道のりです。
 人生すべからず青春頑張ろうと思っております。一拾百千万の実行でいきます。
 最後になりますが、香川県建築士事務所協会香川県建築設計協同組合 賛助会の今後のご発展と皆様方のご健勝をお祈りしております。


|
  • TOP
  • 県民の皆様へ
  • 建築士とは
  • 建築士事務所とは
  • 建築士事務所協会会員
  • 協会会報 さぬき
  • 会員作品集
  • 良い家を建てるには
  • 設計から建築まで
  • 苦情解決業務
  • 会員の皆様へ
  • 行事・講習会
  • 連絡事項
  • 委員会
  • 協会概要
  • 協会概要
  • 入会案内
  • 賛助会
  • 賛助会
  • リンク集
  • 香川県建築設計協同組合

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれた記事のうち会員シリーズカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリはこれからも作り続けるシリーズです。

次のカテゴリは寄稿です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。