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2020年6月アーカイブ

-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 菅善明

50年を振り返って
菅善明
菅善明
(株)菅組

 創立50周年、誠におめでとうございます。50年の過程で世の中の建築物が多面に亘り想像以上に変化した物件が数多く見られるのではないでしょうか。その変化を身をもって感じます時、諸先輩のご労苦は如何ばかりかと拝察いたします。本当にご苦労さまでした。
 私が建築業界に従事させて頂き65年の歳月が流れました。振り返ってみますといろいろな意味で多くの教訓を与えてくれた、大変恵まれたよき時代に身を置くことができたと言えるのではないでしょうか。その一つには戦中戦後の貧困の中で、人間の極限に近い生活も体験し、『窮して足るを知る』という言葉をも学びましたが、その後50年も経たない内にその教訓を忘れてしまいました。そして、バブル期から崩壊までの過程では、際限のない人間の欲望による帰着点を見ることができました。このことは人間本来の最も見苦しい弱点が露見されたのではないでしょうか。いずれにしましても得難い貴重な体験でした。その現実を子々孫々への教訓として伝えたいものであります。しかしながらこの教訓の他によく考えてみますと、大変不幸な出来事でありました太平洋戦争によるその戦後復興の道に再建の主役的役目を仰せつかったことによって、不謹慎な言葉かもしれませんが、不幸中の予期せぬ想定外の技術的な成長の要因になったことは万人の認めるところであります。以上のような経緯から見ますと、我々の家庭や国を思って頑張り、経済発展に寄与することができたことは業界の成長過程で良い勉強になったのではないかと思われます。その意味で、これまでは厳しいながらも精神的には大変恵まれた時代であったと思われます。変化の激しいこれから先を読むことは大変むずかしいことですが、建築業界に於ては世の中から要求されるごく限られた範囲の課題と対峙しながら解決に取組み、国民の安寧に資することが唯一の道ではないでしょうか。例えば、最近多発しております自然災害への対処、耐震、免震、耐火、耐風雨等々各関連メーカーも日進月歩で研究が進んでいると思われますが、具体的に申しますと浸透性の耐火塗料、コンクリートに弾性を加味する、積層ガラスへの冷気、暖気を注入した空調装置等々、それぞれの業務の中で実現可能な課題は身近にあると思われますので、それぞれの分野で研究に取組んで頂きより精度の高い建物を目指したいものであります。このような新建材、新工法については、常に現場最前線で活躍されておられます建築士事務所協会、又建築士会のみなさん方から毎日の作業の中から改良点を感じたことを提案して頂き、各メーカーにそのヒントを与えて頂くことが実現への近道ではないかと痛感いたします。どうかみなさん方の日常業務が建築技術の向上につながることを意識しながら頑張って頂きますようご期待申し上げます。以上、つたない文面になりましたが、私の歩んで来た過程で感じた事を記させて頂きました。どうか拙文をお許し下さい。
 結びに当り、香川県建築士事務所協会の益々のご隆盛と会員みなさん方のご健勝を心よりご祈念申し上げ、お歓びのことばに替えさせていただきます。


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協会と日事連

富岡 學
富岡 學
(有)富岡建築研究所

 香川県建築士事務所協会(協会)が創立50周年になりました。正会員・賛助会員の皆様方の協力のおかげです。私が協会の仕事に携わったのは平成7年第20回建築士事務所全国大会香川大会で三島会長の元、県民ホールで手伝いをしてからです。平成8年に理事に選任され平成20年から30年まで会長を務めさせていただきました。

img-01-002.jpg  協会は、日本建築士事務所協会連合会(日事連)に所属し、私は平成22年に常任理事として広報・渉外委員会の委員長と会誌編集専門委員会の担当に選任されました。前年度の会長会議で、当時の会誌の内容・カラー等の体裁について再検討が必要である、と発言した事によるかも。会誌の編集委員長と企画編集人が替わり、平成23年4月号から会誌の名称が「Argus-eye」から「日事連」に変更され内容も変更されました。残念な事に変更後まもなくして企画編集の城市創さんと委員長の森野美徳さんが亡くなりました。日事連では、総会・会長会議で常任理事が担当委員会の業務報告をします。
 平成26年に副会長に選任され、担当は広報・渉外委員会でした。副会長は常任理事会に先だって正副会長会議を行ない、忌憚のない意見交換をして常任理事会に臨みます。
 常任理事会・理事会・委員会は八丁堀にある日事連で行ないます。私は150回余り日事連へ行きましたが全て日帰りです。始発便の飛行機で往き、最終便で帰りました。副会長として懇親会に出席した時は寝台特急「瀬戸号」で帰りました。日帰りでも会議の前後で3時間位は自由散策が出来ました。スカイツリーが「生コンクリート工場発祥の地」とか、渋谷スクランブル交差点背景のコンコースの岡本太郎の壁画「明日の神話」とか、皇居半蔵門近くの英国大使館前の歩道は昔から未舗装のままであるとか、参考資料の探索は尽きません。

img-01-002.jpg  昭和41年開館の竹橋のパレスサイドビルは皇居を眺望出来る屋上緑化テラスがあり、イサム・ノグチが使った庭石があります。床から天井までのガラス、地下鉄の駅と直結等、現代建築のはしりで昔から好きな建物です。
 平成25年第37回建築士事務所全国大会三重大会は伊勢神宮式年遷宮に合わせて行なわれ、「お白石持」行事に参加。平成25年中四国ブロック協議会は香川県が幹事会で、三栖邦博日事連会長を四国村、イサム・ノグチ庭園美術館に案内しました。(株)日建設計の社長・会長を歴任された三栖会長から、百十四銀行本店を見てきた、と聞いた時は感動を覚えました。
 平成19年には山上紀麿協会会長と福本富雄賛助会会長のもとで賛助会組織強化がなされました。情報交換、請負者との協力関係を強固にし、仲間意識を持ち、協会の会員増強を異種交流で設計事務所をアピールします。
 県の営繕課との意見交換会では、県と高松市で取扱いが異なっていた法第6条等における別棟の扱いを統一してもらう等がありました。
 これからの香川県建築士事務所協会を若い人達にゆだねたいと思います。

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・・・防災・減災・・・

遠藤 孝司
遠藤 孝司
(有)C・I建築設計事務所

 近年、台風・大雨など100年に一度あるか・・・ないかの非常にまれな自然災害が毎年のように発生しています。
 平成23・3・11日に発災した東日本大震災で児童74人が犠牲になった大川小学校の件では、最高裁で事前防災の不備が問われ、市に法的責任があると判断をしました。
 我々、建築士が災害が発生した場合、自己の被災を除いて、対応出来る事は・・・!
 *直ちに、立ち上げたいのが「応急危険度の判定」活動
 *次に被災者支援として、「罹災証明発行の援助」活動
 *仮設住宅の建設の援助活動, 復興支援・・・等が有ります。
 平成28・4・14日と16日に発災した「熊本大地震」での、香川県建築士会会長として体験した事例から、改めて「防災・減災」を考えてみたいと思います。
 発災後4/17日より、まず行政官による「危険度判定」作業が始まりました。私は近県の建築士会の動向と香川県担当者と民間判定士の派遣要請について聞き取りを行っていました。建築士会の通常業務は一時中断しました。
 民間判定士の派遣については、被災現地の受入体制の事も有って・・・4/21日に士会連合会より「派遣要請があった場合の人数把握をするよう」要請が有りました。
 救援の状況が連合会のHPで掲載され始めると会員からの問合せもありましたが、4/22日には中四国の行政幹事県(広島)からの情報がないので、香川県として、今は要請できないとの事。要請があれば士会として即、動きますので躊躇なく知らしてほしい旨伝えて事務局に引き返しました。その夕方・・県から連絡が有り、日本建築防災協会から費用面のバックアップが決定し、4/28日~5/ 2日の予定で民間判定士の派遣要請が整ったとの事。
 しかし・・・
 士会を預かる者として、現地までの交通手段は、宿泊地から調査現場への足は、判定士の保険は、等を確認しなければ会員を派遣する事はできません。県担当者は保険以外は全て士会の方で手配をしてくださいとの事。
 混乱している現地での宿泊施設の確保は困難を極め、交通手段はJRを検討し、最寄りの駅は・・レンタカーの手配は・・?
 建防協に問合せをし、バス等のチャーターでも可の確認し、手配をしたが・・連休の真っ最中、バス会社は全て予約でいっぱい。市内の小規模の観光会社が事情を理解してくれて、ようやく小型バスを手配をしてくれました。
 宿泊施設も難航し、ビジネスHで二段ベットの部屋を確保できました。4/26日に正式に浜田知事よりの出動要請と共に高速道の通行書を受取、現地からは宿泊・食事の準備は有りません・・調査業務は熊本市外の市町村になるようです。
 この条件で4/28日に判定員10名で高松を出発しました。(中四国9県で約80数名の派遣だったと思います)
 5/ 2日には一部軽い負傷者が出ましたが、全員無事帰高しました。
 私は、連休明けに連合会でご一緒した先輩が熊本市内にいるのでお見舞いを兼ねて、現地へ出向きました。
 先輩の案内で、被災地の状況を知りたくて熊本県庁へ参りました。
 熊本県の建築担当者は、住宅局長をはじめ各課長の若い頃は青年委員長など士会活動していた会員で、色々お話が聞けました。「被災半月後も判定要請が多く、被災の大きい地区から作業を進め、他県からの協力も得て住民の要請に応えてきました。ある住民は「やっと来た」と安どの顔つきでしたね」と言っていました。
 耐震改修済の建物で避難所になっていた建物も、二次部材の損傷を含め、避難所として使えない箇所が有ったそうです。
 「耐震改修をしているのに・・・なぜ?」マスコミの論評はこのようなニアンスです。
 でも・・・!
 「もし、改修前だったら・・・どうなっていたか・・改修していて良かった」と言う新聞論評はなかったようです。
 熊本市内の幼稚園・小・中・高の1267棟を発災後10日頃までに応急危険度判定をしたそうですが、約10%の134棟が「落下物有り」を含め、赤(危険)と判定されました。耐震改修工事がなされていても、地盤の状況・地震波の方向・二次部材の事で「危険」となるのです。今まで、熊本は地震災害の少ない地域と考えられていました。
 災害のない事を願っていますが、香川県の皆様も同様に考えられているのではないかと思います。耐震改修工事は万能ではないのです。
 東・南海地震が話題になっています。
 いつ起こるかわからない災害・・! 行政機能も混乱・マヒしている中で、命令系統・責任の所在を明確にしておかなければなりません。平常時に概略的な決め事をして、判定員が速やかに動けるよう準備をするのも大事だろうと思います。
 又、熊本大地震の直前になりますが、H28・3月に内閣府より「災害に係る住家被害認定業務実施体制の手引き」が作成され市・町村が交付する「罹災証明書」の交付に係る被害認定業務に関して、建築士への依頼・建築士会と公共団体との協定に関して記載されています。
 近年の災害を鑑み、香川県建築士会では一部の市町で被害状況調査の協力関する協議を始めたばかりですが、事前の取組など検討しておいて、予想される事に対応しなければと思いを深くしています。今後の皆さんのご支援とご協力をお願いします。


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最近の建設業界の動きについて

合田 耕三
合田 耕三
(株)合田工務店

 香川県建築士事務所協会の創立50周年という節目の年に原稿を書かせていただきますことを大変光栄に思います。うまく表現できないかもわかりませんが、最近の建設業界の動きについて感じていることを書かせていただきます。内容につきましてはいろいろご意見もあるかと思いますが個人の感想ということでお許しいただきたいと思います。
 2020年そして令和2年、現在の建設業界は高齢化と共に深刻な人手不足が発注業務をはじめとし、設計、施工管理、技能労働者(職人)、維持管理と建設業界のすべての分野に広がり、計画通りの事業を進めることに支障をきたす状況に陥っています。また、建築コストも人手不足による労務費のアップにより大きく上昇しています。建築技術者に限って言えば、知識と技術を持った建築士の不足が問題です。かたやそのおかげで発注が遅れ工事の平準化が進んでいるということが起こっています。しかし人手不足はICT(Information and Communication Technology)の活用で社会全体の効率化を進めており、AIやIoTといったデジタル化の進展により生産性を高める動きが始まっています。設計業務においてもBIMの導入が始まり、組織を持った大手設計やゼネコンが、あらゆるデータを集め独自のBIMシステムの構築に全力をあげています。そしてハウスメーカーは中堅ゼネコンやデベロッパーをM&Aして組織力を強めています。ICTの発達は業務を効率化することができますが、大きな労力と投資ができる組織とそうでないところの格差を進めます。今IT業界ではGAFAといった、アメリカの企業が世界の経済をリードしていますが同じことが建設業界でも起こると思います。優れたBIMというプラットホームを持った一部の組織が業界全体を征圧することが起こり、発注もその組織に頼らざるを得ない(AIがBIMを使って建設の全ての工程を管理する)時が来るのではと思います。設備を含めた設計施工一括発注方式で維持管理コストまでを評価対象とする様な新たな競争発注方式が当たり前になる時がきそうな感じがします。
 国土交通省ではBIMを活用した建築生産プロセス等の将来像について審議が進められています。その中の最終目標はAIによる設計の自動化、AIによる設計の審査、建築資材の自動発注、生産そして省力化ロボットの導入、センサーを駆使した安全管理などからその先は無人施行までを視野に議論されています。コンピューターの中で何度も建物を設計し施工し、最適な答えを出すまでシュミレーションすることが可能となってきています。建築生産は単一種、現地生産が基本であった故に工場生産(工業化)は難しいと考えられていましたがそれも覆ることになりそうです。技術革新と人手不足、労働環境の改善が新しい建築生産のプロセスをつくり始めています。自動車を生産するのと同じ様に、できる限りの部品を共通化し、工場で大量生産することによりコストを削減し、現場は組み立てと最後の仕上げだけをすることにして人手がかかる作業を減らし、短期間で完成を目指すシステムが作られてゆく様に思います。それは建築コストの面からも要求が強まります。現在の状況のように建築コストが上がってゆけば採算に合わず、そのうち新築は難しくなります。一部の住居や作業空間が車にとって変わられることがあるかも分かりません、建築の分野だけで考えていると全く違う分野から思いもよらない答えが出されることになるやも知れません。住居がそしてオフィスが土地に固定されている必然はないのですから。物流の分野においても、店舗で品物を並べてお客さんに来てもらって販売する商売の仕方が、スマートホンでカタログを見て注文すると品物が自宅に届く通信販売のビジネスが増えています。店舗は不要で、品物を配達する仕組みがあれば商売が成り立つわけです。10年前のリーマンショックの時とは業態が大きく変化しています。
 さてこれからの10年で建築という産業はどの程度進化してゆくのでしょうか?建築士事務所は大手の組織設計の事務所と中小の事務所の格差がますます広がってゆくことになると思います。中小の事務所はそれぞれの個性とスキルを大切にしながらも共同と協調ができることが不可欠です。緩やかな提携関係を作り、ひとつのプロジェクトにそれぞれの事務所が得意分野の力を結集して業務を遂行する体制づくりが必要です。また既存建物を守ってゆく技術を大切にすることも大事です、AIには真似できない感性を磨き、建物を大切に維持・保存することが社会的な使命になるのではと思いますし、そこにこそ伝統を大事にする地域の建築士事務所としての存在価値があるのではと考えます。また、時代が変化してゆく時は大きなチャンスがあるものです、小さなアイデアが大きな成功につながることが出てくると想像できます。大きな組織ではリスクテイクできないことが小さなところでは簡単にできることもあるのです。ICTの進化で建築生産という物づくりが機能性と芸術性そしてコストをどの様にマッチングしてゆくか楽しみです。若い建築士の皆さんの活躍が期待されますし、ベテランの人たちはそのための土台を築いてゆかねばなりません。10年先、20年先、建築設計のスタイルはどの様になっているかはわかりませんが、時代は確実に変化しています。いろいろな道がありますが、さて皆さんはどの道を選択して、どう歩んでゆきますか?


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賛助会の思い出

福本 富雄
福本 富雄
シンコユニ(株)

 香川県建築士事務所協会創立50周年おめでとうございます。
 平成19年3月にタカネ設計山上所長、富岡設計富岡所長、森勝一設計森所長の皆様に、一部の賛助会員サンキ保子、日本ペイント市村、東工シャッター桑崎、大協建工板坂、朝日建材工業杉上、シンコール松木、各氏と私シンコユニ福本7名が呼ばれて賛助会の他県の活動状況などの説明を受け、香川県建築士事務所協会も今後積極的に賛助会の活動をする事になったので、賛助会活動を立ち上げてもらいたい、と話しがあり、時間がないので即会長を決める様にでした。
 7名で押し問答しましたが、なかなか結論が出ないでいると山上会長から「福本やってくれ」で固辞はしたのですが、最終的に私が引受ける事になりました。引受けたはいいが、活動していなかった賛助会、他に会長などしたことがない、何をどうしたらいいのか分からない。幸いサンキの保子さん日本ペイントの市村さん東工シャッター桑崎さんの皆さんに助けて頂いて進み出しました。
 引受けた当時会員は95 社でした。私はまず活動するには会員を増やそうと思いました。現在は130 数社になっています。
 本会活動に協力する事を目的に賛助会の組織を本会と同じ組織を作りました。何度も何度もサンキの事務所で打ち合わせをして原案が出来た様に思います。
 現在では建築セミナー、工場見学会、ゴルフコンペ、ボウリング大会などを行っています。
 私は賛助会設立の平成19年から27年まで8年間会長を務めさせていただきましたが、今は武田建設の武田社長に引き継いでもらっています。武田さんはスーパーゼネコンの協力会の会長を務めているような方ですので、私より、よい賛助会にしていただけるものと確信しています。
 昨年11月2日よりヨーロッパ最大級の建築関連の展示会「BATMAT2019」に金属屋根協会から16名で参加しました。会場はパリ郊外シャルルドゴール空港の近くで25万m2ほどの規模で、幕張メッセの2倍以上の規模でした。

img-04-002.jpg  展示品は建築関連の資材から建設機器工具に至るまで全般の展示がされていました。特に金属屋根を参考に見ました。欧州は日本に比べて緯度が高く特に高断熱に対する意識が日本とは比較にならないほど浸透している様に見受けられました。
 板金の折り曲げ機に参考になるものが展示されていました。一般的には、上に曲げて、次に下に曲げる場合は板を作業員が反転させますが、その曲機は上刃が降りると下曲げ、下刃が昇ると上曲げ、自社の役物用にはいい機械ですが、6m物で値段が6800万円。輸入して壊れて修理など、いい機械ですが参考までにしました。
 他はサッシの加工機が特に気になりました。切断、穴明、留切、暫く見ていました。横には樹脂のサッシもありました。
 見学後はバスの車窓からは修復作業中のノートルダム大聖堂など見る事が出来ました。
 翌日オルセー美術館に行きました。オルセー美術館はパリ万博の際に作られた駅舎で、その後の交通の変化により使われなくなった駅舎を1986年に改築して、美術館にしたそうです。ゴッホ、モネ、ルノワール・ミレーなど絵画が多く収蔵されているらしく入場者が大変多くいました。

img-04-003.jpg  その後スペイン北部(バスク地方)にパリモンパルナス駅からTGV(新幹線)に乗り、バイヨンヌ駅からバスに乗り、安倍総理も出席してフランスサミットが開かれたビアリッツを見学しました。そこは海岸で立っていられない位の雨風でした。
 その先エスプレットに向かいました。スペイン瓦の屋根に赤色や白色の壁、軒先に昔ながらの唐辛子を干してある風景を残している閑静な町でした。
 翌日牛追い祭りで有名なパンブローナに行きました。町の道路は石畳み、そこを多くの牛が走る想像するだけでも勇壮、危険だろうなと思いました。
 大きな教会を見学してサンセバスチャンに向かいました。サンセバスチャンはビスケー湾に面した美しい海岸の町です。季節外れのためか静かでした。
 最終日はビルバオに入りバスク博物館とグッゲンハイム美術館を訪問しました。
 バスク博物館では地方の民家の模型が展示されていて、バスの車窓から見える今の住宅とあまり変わりない様に感じました。

img-04-004.jpg  グッゲンハイム美術館はアメリカ人の建築家の設計との事。屋根・壁共にチタン板0.38mmの一文字葺きで金属屋根協会の今回の見学目標でした。

img-04-005.jpg  屋根・壁とも曲線で一番に「これ雨漏りするのでは」と思いました。工事費が日本だと5億ぐらいでしょうか、材料がチタン独特の全面歪みが目立ちますが、歪みもデザインの内らしく表現している設計事例で今でも建築雑誌等で多く紹介されています。
 見学最後はビルバオ市内に流れるネルビオン川の河口に掛かる世界遺産に登録されているビスカヤ橋を渡りました。吊橋に普通車程度の6台と人が乗るゴンドラです。
 開閉式だと船が多く通るので、船の間隔を利用して速やかに移動が出来るゴンドラにしたそうです。橋の完成は1893年だそうです。4~5㎞上流でないと橋が無く、今でも地元の人たちには重要な交通手段となって使用されている事が驚きでした。
 最後になりましたが、香川県建築士事務所協会並びに香川県建築士事務所協会賛助会の益々の御発展を御祈念申し上げます。


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設計人生46年目を想う... アトリエの在り方...これからの整え方 ゆっくりと...歩きながら...

入江 丈水(英樹)
主宰 入江 丈水(英樹)
入江建築設計事務所
空間工房+草sohまちづくり研究室

 先日、まんのう公園で一面の菜の花・・・を束の間楽しむことができた。ノルディックを杖代わりに歩きながら・・・ 菜の花~♪~から始まる唱歌のゆっくりとしたメロディーを想い返していた。・・・あれこれ思いながら歩くことがよくある。
 昨年、F. ライトの「ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)」の再〃訪・・・、村野藤吾の懐かしい作品等...、六甲を訪れる機会があり・・・
 恒例の(設計人生を想いながらの...)紅葉カメラ散策の 北陸・永平寺~、奥丹波~等(寺社巡り、瀬戸内国際芸術祭を絡ませながら...)を巡りながら...
 併せて先日、県立ミュージアムでの 「日本建築の自画像・探究者たちのもの語り」の展示空間は遠い時を遡って...楽しめました。
 思えばこれ迄の「建築家山本忠司展」、「祭礼百態 香川・瀬戸内の風流」、「イサムノグチ展-彫刻から身体・庭へ-」、「讃岐びと・・・時代を動かす・地方豪族が見た古代世界」、「丹下健三 伝統と創造-瀬戸内から世界へ」、塩飽海域の太鼓台関連冊子・資料...等、地元関連の展示が続き興味深く拝見したことを次々と想い起こしていました。
 そして今年の初詣は・・・狛ねずみで話題の大豊神社、脇の「哲学の道」を散策しての伏見稲荷大社参拝でした。さすがに人の多さには圧倒されました。
 東京西麻布でのワークから、香川県立高松工芸高校建築科・教職の世界に一度は建築人生を考え・・・、3年後ある契機から建築設計の実務に入り、もう46年目を迎えている・・・。・・・自然と心構えとしての言葉を探していたようだ。
 パンデミック オーバーシュート(爆発的感染拡大) ロックダウン(都市封鎖) スーパースプレッダー クラスター 自覚無き感染 医療崩壊・・・物騒な言葉が飛び交っている。
 建築専門誌でも「建築界を直撃 新型コロナショック(日経アーキテクチュア)」として「特別リポート」が組まれている。 工事資材の調達難、人材不足、工事の遅延と不安要素が多すぎる。
 一昨年と思うが、Tv 番組で少なからず衝撃を受けた 「NHK スペシャル 巨大危機 MEGA CRISIS ・・・ウイルス「大感染時代」・加速・拡散するリスク・・・忍び寄るパンデミック(感染爆発)」に目が離せなかったことを思い返している。
 思い返せば、以前のフランスでのテロショック(ルーブル美術館等も閉鎖・・・)が研修旅行の渡航直前でもあり、仕事のパートナーでもある妻とはキャンセル、長女はあまり気にせず渡航したという経緯がありました。 そのせいか、「Le Louvre(ルーブルとパリの美術)」全8巻・・・重すぎることもあり虚しく本棚に収まっていたのを時々引っ張り出していたのも・・・懐かしい。
 Tv番組「高松 歴史礼讃 謎の古代遺跡・石清尾山古墳群」があり、国指定史跡・石清尾山古墳群の積石塚から映し出されていた。さらに、番組「ジオ中四国・・・奇跡の大地」にも引き込まれ 中央構造線の成り立ちから始まる壮大な・・・瀬戸内海の物語り・・・に感動したのもつい先日のことである。
 石清尾山も瀬戸内海に面していたからこそ200基もの古墳群(高松市教育委員会による報告会も思い出す...)を擁する勢力を・・・ そして、丸亀城の北面も以前、海波に洗われていた為、古道(お成り街道)は南廻りになっていたと聞いたことを思い返していた。
 丸亀市市民講座では例年・・・香川の古代寺院、讃岐の古代、国府、遺跡、古墳等・・・出土瓦等をベースに楽しんでいる。開法寺式からの善通寺系列と、讃岐国分寺系列への瓦文様から読み解く変遷の流れも興味深い。
 私の宗教建築への関心は法隆寺からスタートしたと思う。写真集「古寺巡礼」第一巻からスタートする・・・「大和編 法隆寺・斑鳩の里」(土門拳全集 全13巻)を時々気分転換に捲っている。又、日本古寺美術全集 第1巻 法隆寺と飛鳥の古寺、第2巻 法隆寺と斑鳩の古寺(集英社)も傍に並び、併せて見ている" レオナルドダヴィンチ"関連書も数冊集まって来ている。
 以前、源氏香に魅せられたことにより「家紋と家系辞典」も座右の書となっています。籠目紋(六芒星、ダビデの星、伊勢神宮由来も・・・)六角 万字 輪鼓(りゅうご)紋・臼型(旧丸亀市市章にも採用) 目結紋(京極家) 三階菱紋(さんがいびし) 巴紋(右三巴紋、左三巴紋・・・) 清明桔梗(五芒星・セーマン)等・・・深い意味もさることながら見事な造形を楽しんでいます。
 以前、突然の避難勧告で瀬戸大橋が早朝通行止めとなり、中止せざるを得なかった・・・宗像海人を彷彿とさせる宗像大社(裏伊勢・玄界灘)に、再び気が向いています。 暗い話題もあり、祈りの空間への思いも強くなっているようです。
 平穏な日常が突如危機へと変貌する・・・それが私たちの生きる時代・・・今年はCOVID-19(新型コロナ)禍のため巣ごもり状態が多くなりそうなので・・・恒例の桜散策も 写真・画像(見事に決まりすぎている写真の多い事か!!・・・)でも眺めながら・・・撮影者の感性も楽しみながら・・・の 家花見になりそうです・・・。
 そして、今年度から 地元春日神社氏子総代を仰せつかる年になり、ロータリークラブ歴も35年を迎え、設計人生の時間軸を改めて俯瞰しながら ゆっくりと納得のいく設計人生を手探りしつつ・・・延期された2020五輪に思いを馳せながら、今年は明るいニュースが聞けることを楽しみにしています。

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空間(年輪)の継承

植村 義隆
植村 義隆
(有)植村建築設計室

 総務省の「平成30年住宅・土地統計調査」で空き家率が過去最高の13.6%に達し、全国的に空き家問題への対応が求められている。空き家をそのままにして置くと、倒壊の危険性、衛生面の問題、防犯上の問題等、各市町村に置いてはその対策に苦労しています、空き家になる理由は家庭内における様々な要因があるとは思いますが、住居を継承できるように我々(建築家)も努力していかなければならないと思います。
 私は、昭和22年(1947年)生まれで、終戦後で、食料事情も悪く、小学校の給食においては脱脂粉乳でコッペパン1個程度の粗末な昼食で、校舎は昇降口のない吹き曝しの廊下から直接教室に出入りできる木造平屋建ての校舎でした。でも生徒数は、戦後のベビーブーム(団塊の世代)で1クラス50人の生徒数で1学級3クラスもあり、市町村においては、大川郡鴨庄村でした。

(昭和の時代)
 住環境においては、実家が半農、半業で祖父の代から大工をしており傍ら農業もしていました。
 稲作、柿、桃等の果樹園もあり農協市場に出荷していましたが、農業で生活が成り立つ規模ではありませんでした。
 初代の建築は、私の祖父が昭和5年に上棟した、築90年になる木造(中二階建)で横の納屋は当時木材不足で古い建物を解体した時に貰いうけた古材で建てたそうです。
 住まいに置いては、典型的な田の字形式平面で、当時農耕用に牛を飼っていたので、農機具と大工道具置き場の倉庫(納屋)が母屋の横に建っており、前庭に鶏小屋(10羽程度)花壇、坪庭、生垣が配置されていました。納屋には木屋が併設しておりました、当時はまだプロパンガスが普及されておらず、木屋は燃料になる木材、松葉を保管する場所でした。
 木材は家が大工もしておりましたので現場の残材で十分まかなわれていました。風呂と便所は母屋と離れており、朝起きるとトイレと、洗顔(歯磨き)は井戸横の流しで非常に冬場は寒い思いがしました。母屋には、土間(叩き)式の玄関があり、1年間の食料であるお米が入れられ大きな保存缶が2缶、自転車が1台収容されており、炊事場(台所)は土間形式でした。土造(煉瓦)で漆喰塗りのおくどうさん(釜土)三口あり、横にはテラゾウ式の流しと炊事用の水瓶が配置されておりました。当時は、まだ水道がなく井戸水をつるべで汲み上げていました。又、井戸横には野菜の水洗いや魚の下処理用の流し台がありました。食堂は松板張りで(床下は芋穴になっている)冬は非常に寒い思いが、そこには600×800程度の小さなちゃぶ台を家族6人が囲んで裸電球1個で食事した思い出があります。玄関の横には、6帖の南座があり奥に8畳の仏間と床の間付の客間(6帖)があり、祖父と姉と妹の寝室と勉強部屋になっており、夏場は空調のない時代で縁側のガラス戸を解放し、一つのカヤで寝た記憶があります。

img-06-002.jpg (平成の時代)
 その後、私と姉妹は進学、就職、結婚、独立と核家族化が進み家族構成が祖父と両親の3人構成となり、しばらくして祖父の死後、両親だけの生活体系になり、住宅の空間構成も少しずつ変化が見えはじめ田の字型から、土間形式の台所から床を上げフローリング張り、小屋組み現しの天井が杉板張り、キッチンは釜土からステンレス製流しとガス台に変わり、浴槽は五右衛門風呂からホウロウ浴槽の直焚き、トイレは汲み取りから浄化槽、玄関は土間から取次場兼応接間へと様子をかえアメーバのように形体を少しずつ変えていき、しばらく時がたち、長女が小学校入学時に私たち家族4人が同居するようになりそれぞれの独立した空間が必要となり、子供部屋の改造、寝室の増設とリフォームをして機能型の空間構成となり、しばらくして母の死後、日本文化が楽しめる、美的空間求め、お茶室併用、客間の増築、独立した床の間付の玄関(取次の間)、台所のキチンをシステムキッチンにし、食器戸棚を照明入りの収納型、浴槽をユニットバスに改造、そして時がたち子供たちの進学、結婚、独立と時代が流れ父親と私たち夫婦と3人家族となりました。

img-06-003.jpg (令和の時代)
 そしてしばらく時がたち父親の死後、家族構成は2人だけの生活になり、私たちも古希を超え、それぞれが趣味を生かした生活体系となり、独立した寝室に、浴室、トイレ等、介護サービスが受けやすく配置し、長年にわたって使用して来た家具等の収納スペースを大きめに、フリー空間を広めに又、趣味の多目的室、多目的ウッドデキを配置するために、当初の農業用の納屋(牛小屋)を改築しました。このように住空間の変化はその時代、その時の生活の年輪であり、住まい手の心を癒し、家族の絆の場所として時代を超えて、将来に渡り継承されていかなければならない財産であると思います。

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近頃思うこと「建築の寿命とは?」

篠原 晴伸
篠原 晴伸
(株)タカネ設計

 動物の寿命は脳の成長のピーク年齢の5倍だそうです。そうなると15歳~20歳程度で亡くなる犬や猫は3才~4歳が脳のピークと言う事でしょうか。人間の脳の成長は大体25歳で止まる様ですから本来125歳程度が人間の寿命と言う事になるそうです。日本では100歳を超える人口はこのところ急激に多くなって7万人程ですが、それでも農薬とか添加物入りの食べ物や過剰なストレス、病気や事故災害等、色々な条件で中々長生きは難しいようです。
 人間の寿命を100年と仮定してみて、色々な物の寿命を考えた時、物でも生き物でもまた時間的な経過でも、それぞれのスパンは長いのか短いのかという疑問が出てきます。例えば人生100年と考えると今からたった150年前が江戸時代だなんていうのも私の中では不思議ですし、太平洋戦争終結後約75年である今、戦争終結以前のたった75年程度で日本は江戸時代から近代化へ激的な変化を成し遂げた事になります。
 話は建築になりますが、建築もまた寿命は長いのか短いのかと考えてしまいます。それは建物の減価償却がどうか、と言う意味ではありません。
 私が若い時は、設計した建物は相当長い間存在するだろうと思っていましたが、卒業後1年余りで補助として関わった大的場の公共施設も、今は解体されて無くなってしまいました。竣工後約30年程だったと思います。
 其々の過程で、その時代には利用者が有ると想定され要望された施設も、時の流れの中で使われなくなる建物もあります。古い公営住宅やマンションまた店舗も含まれるでしょう。そして人口減少も建築への変化に対する大きな要素です。例えば統廃合で使われなくなった校舎も解体を待つだけと言う場合もあるでしょう。
 近年は耐震に対する対応の重要性から、昭和56年以前の建物で耐震補強が困難だったり工事費がかさむ場合、解体しか方法が無い場合もあります。種々の条件で建物が活かされなくなる状況を見るのは仕方ないにしても、自分が設計に関わった建物の場合は特にどこか切ないものです。
 昨年沖縄の首里城が焼けました。今回焼けた首里城は1992年に出来た正殿で、築後まだ27年です。当然建替えや修理が行われるでしょうし、その存在価値が繋ぎ残っていくと考えると寿命は長いとも言えますが、築後27年で無くなるのではやはりとても短かいですね。

img-07-002.jpg  一方で完成後に、もう一度見に行きたいと思っている命の長い建築が有ります。
 1882年から建設され、2026年完成予定として未だ建設中のサグラダファミリアです。
 建築家ガウディが亡くなっても、その思いが他者によって引き継がれ、建設され続け現在も息吹を吹き込まれている建物です。建設の経過が長いだけに表と裏のファサードは新しさと古さが違い過ぎる感はありますが、何れにしろ今まだ生まれようとし、ガウディ没後100年に当たる2026年の竣工後も間違いなく維持され続けて相当に命の長い建物になるでしょう。

img-07-003.jpg  私は若いころ村野藤吾さんの作品に感動し良く雑誌を見、デティールを模した事も有りました。特に村野さんが60歳半ばを過ぎての作品は瑞々しく潤いを感じました。村野さん等の建築家だけでなく、著名な芸術家等も含め、作品を造る人は恐らく常に何かを求める強い探求心があるからか、年齢に関係なくというより、年齢を重ねる程に逆に若々しく、自由でフレッシュな感性に近づいている様に思えます。若かった私はその方達を手本にしようと考えたものですし、村野さんと同じ93歳までと言うか生涯現役で建物に取り組みたいと思ったものです。
 その村野さんの作品も、最近ネットで検索した作品リストでは約半分が「現存せず」となっていました。古い建築で構造強度が無い等の仕方ない物もあるでしょうが、その中にはまだまだ新しい建物もあります。著名な建築家の建物でさえ、その寿命がとても短い場合がある。そう考えると、建物の寿命(存在価値)はいったいどの位が妥当なんだろうと思わざるを得ません。
 都会の高層ビルが30年や50年で建替えられる事は考え難いですが、香川県内を見渡すと30年から50年で建替えられている建物は多いように感じます。そこで建物の寿命に影響する要素を考えて見ました。
  ① 建物の機能や運用が時代に伴わないもの
  ② 建築の構造強度が基準に適さなくなったもの
  ③ 建築物の風化
  ④ 作風やデザインの消失
  ⑤ 維持管理が出来ていないもの
  ⑥ 建築の運用形態が時代にそぐわないもの
  ⑦ 災害により消滅するもの
  ⑧(海外の場合)戦争やテロ等の破壊行為
                    等々

img-07-004.jpg  1964年の前回の東京オリンピックの頃はテレビが一般家庭に普及しモノクロ画面からカラー(天然色)となって行きました。今は車が1~2台ある家庭も増え子供もスマホを持っている時代になりました。前回から今年のオリンピックまでの56年間、人や物の社会的変化に伴い、都市や建物は急速に様相を変えてきています。その間都会だけでなく地方都市の建物も一度は建替えられた物が多いのではないでしょうか。近い将来、増えるであろう人生100年時代や益々の人口減少、5Gやその後の6G関連による社会の様々な変化が建築や都市形態そのものへ影響する事が予測される中で、人との関わりを基本にしつつも建物にはより従来と違う柔軟な変化や対応を求められると思います。そうなるとそれまでに建った建物の寿命にも当然影響を与える事となるでしょう。その現象を経済も含めた社会の発展として前向きに捉えつつも、設計に携わる者としては、やはり建築の寿命はどの位が妥当なのだろうかと考えてしまいます。


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建築職人育成学舎「匠の学舎 アカデミー技心館」紹介

白川 勝
白川 勝
大企建設(株)

 この度は、協会創立50周年誠におめでとうございます。心から、お祝い申し上げます。
 さて、私共は、今から3年半前の平成28年6月に、仲多度郡琴平町に於いて、建築職人育成の為、「匠の学舎 アカデミー技心館」を開校致しました。
 開校の背景は、建設業界の職人さんの高齢化と慢性的な職人不足をひしひしと感じていたと言うことです。

img-08-002.jpg  また、個人的に里親を30年近くやって来た中で、若者たちの育成と言うものの大切さを感じておりました。
 開校の目的は、職人不足の一助として、このような青少年に、建築職人の技術と生きていく中で必要な最低限の読み書き算盤、そして挨拶・返事が出来るように躾をきちんと教えて、「一生 メシが食える」ような建築職人にしてやりたいとの思いです。
 具体的には、中学校を卒業した15才の生徒を募集して入学を募っています。現在は1年生5名、2年生4名、3年生5名、計14名です。令和2年3月には、初めての卒業生を送り出す予定です。

img-08-003.jpg  また、通信高校と連携して、3年間で高校卒業資格も得られる事にしています。
 日々のカリキュラムとしては、各学年とも曜日別に座学、現場研修を行っています。現場研修に関しては、1年生の間は、16の各業種企業の現場や工場に出向き、そこの職人さん達に技術を教えてもらっています。1年生の終わりには、体験現場研修をした業種企業の中から自分の適性や体力も考慮の上、保護者同伴の基、2年3年の専門現場研修先を決定します。2年生以後は基本的には、決めた1つの業種企業に専門現場研修に行きます。そして、卒業後その企業に就職すれば、企業は自分たちの教えた経験ある生徒であるし、生徒も就職時には、ある程度の技術が身についていると言う事になります。

img-08-004.jpg  この様な活動の中で、地域の建築業界に、微力ながらもお役にたてればと考えています。
 今後とも、地域業者のみなさんの協力を得て、活動して行きたいと考えています。
 今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

【組織詳細】
 名称:一般社団法人 匠の学舎
 代表者名;代表理事 白川 勝
     設立:平成28年1月28日
 住所:香川県仲多度郡琴平町45番地
 TEL:0877-89-1676 FAX:0877-89-1677
 E-mail:info@takumi-manabiya.com
 http//takumi-manabiya.com


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我 人生、波瀾万丈

中野 晃利
中野 晃利
Teru 一級建築士事務所

 立春の候、貴社いよいよご清栄のこととお喜び申し上げます。
 私は、平成31年に関東よりUターンというかたちで香川県に帰郷し、そして設計事務所を起業を致しました。
 平成5年4月に村本建設㈱に入社し、北関東支店に配属され、その年の12月史上最大の倒産(負債額で最終紙面上約7千億円と記載され、それまでの三光汽船約3千億円の倍の負債額)の真っ只中でおりました。そして当時最初の会社更生法が適用されました。その会社更生法というのは、執行役員に代わり国より選ばれた管財人が運営を行い当時500現場以上あった現場の利益のあるものを100現場程度選抜し引き続き工事を行い、利益のないものは、切り捨てるといったものでした。
 まさに当時の私の現場は切り捨てられる現場でした。4億円程度の賃貸、最上階がオーナーマンションの1人現場でした。(このオーナーが東京での1の恩師、親代わりとなります。)
 その後村本建設を退職し、オーナー直で給与を頂き現場管理を行い、下請業者もオーナーが直接取引を形態(※当にコンストラクションマネジメント)を30年前に確立し、そして翌年5月に竣工を迎え、そして廃業となりました。
 そして身寄りもない東京でいろいろな人伝えで面接を受けました。(約30社程度)
 しかし、免許を有しない、バブル崩壊の世知がない東京で受け入れてくれる会社はありませんでした。
 そして、香川に帰ろうかなと思っていた時に前の会社の紹介で面接を受けた方が当時埼玉土曜会の談合問題で、明記できませんが、ドンと言われた方でした。
 土木出身の方で当時のザ・土建屋の風貌が溢れ出たような人で、若く物怖じしない私は、今までの経緯をただただ正直に話し、思いをぶつけました。結果、面接が終わった瞬間" 2週間後にうちにこいや" とおっしゃって頂きました。
 年商200億円程度の会社でしたが、この会社で2人目の恩師と出会います。
 そしてこの会社で結婚し、第1子に恵まれます。
 しかし、3年程で破産となります。この時私は、まだ25歳でした。
 前回倒産の種類も違いますが、一番大きな違いが家族を持ったことでした。
 独り身とは違い2人の家族に飯を食わせねばという思いと第二の恩師 眞下氏の協力もあり規模は小さい会社でしたが、都民住宅や公社からの発注の仕事がほぼ100%の賃貸マンションを施工する会社でした。またダイヤモンド紙には、急成長東京の企業ということで5位以内に入っていた企業でした。
 入社後、2年で一級建築士、一級施工管理技士を取得し、第2子も授かり、設計主任を経て現場代理人も複数勤め(今ではあり得ませんが・・・・)、他現場監理も併せて行っていました。順風満帆でこのまま波に乗るのかなっと思いきや・・・・
 今度は民事再生法という形で倒産してしまいました。
 係員の時に会社更生法(倒産)、主任の時に破産(倒産)、現場代理人の時に民事再生法(倒産)と子供を授かる度に倒産というのが東京にいっての10年間でした。そして3年の間、紆余曲折を過ごしました。
 4年目の夏に、恩師の眞下氏のお誘いで(株)NIPPOコーポレーション建築部に入社しました。
 入社後は、現場代理人・事業所長として下記のような現場を手懸けました。

img-09-002.jpg img-09-003.jpg img-09-004.jpg  以上を含め約20現場、100億円の出来高をこなしました。
 多少、畑が違いますが、今までの経験知識、そして人脈を活かしものづくりを通じて香川県の社会貢献をしていきたいと思いますので、今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。


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エーゲ海クルーズにて

倉岡 健介
事務局長 倉岡 健介
(一社)香川県建築士事務所協会

 一昨年、県を退職したのを機に長年行きたいと思っていた中央ヨーロッパへの旅を計画していたが、出発前々日の台風で関空が水浸しになり中止になった。そこで昨年、台風時期を外して6月中旬にベネチアからエーゲ海へのクルーズ船に7泊する旅に申し込んだ。早めに予約したのでバルコニー付の部屋で行けることになった。
 羽田からフランクフルト経由で、ベネチア空港までは割とスムーズに進み、陸側のホテルに一泊した。翌朝、ベネチア本島へはバスでユーロスターも通る橋を渡り、20分で到着した。ベネチアの港には大型クルーズ船が6隻も停泊しており、うち1隻は先日、水上バスと衝突して動けない状況とのこと。ベネチアは狭い水路を行きかう船が住民の日常の交通手段であり、今回の事故で大型クルーズ船寄港に対する住民の不満が高まっていて、また事故があればクルーズ船のベネチアへの寄港は禁止になるかもしれないとのこと。
 日本でも京都などで観光公害が叫ばれているが、住環境と観光資源を守るために一定の規制は必要であろう。20年ほど前に訪れたスイスのツエルマットでは電気自動車や馬車のみで排ガスの出るガソリン車は禁止されていた。また、家々の窓は常に花が咲いている状態にしていないと罰金が科せられ、農家も牧草地を何度も刈込んで常に美しい状態にしておくことで補助金を得ており、年収約1400万円の半分占めていたと記憶している。
 今回乗船したのは約9万トン、乗客2500人のカジュアル船で、狭い水路をタグボートに曳かれ神業のように岸壁をかすめて反転出港し、1日目のクルーズがスタートした。初日は空路の疲れもあり、2000人は収容できそうなシアターで1時間ほどダンスショーを見た後、眠りについた。

img-10-002.jpg  2日目は当初の予定はモンテネグロのコトル港であったが、小さな古都のBARに変更になりがっかりした。船の中のレストランはほとんど無料だがアルコールは有料で、ビール小瓶が8~10ユーロと高めである。3日目はギリシャのコルフ島に入港した。ナポレオンがイギリスとの戦いに敗れるまでフランス領であったため、旧市街は当時のフランスの建築様式が保存されており世界遺産に登録されている。港にはクルーズ船が既に5隻停泊していて1万人以上の観光客が上陸しており、旧市街へのバスは渋滞で進まず、途中で降りて20分ほど歩くことになった。
 ちなみに船の乗組員の給料は出身国の賃金に比例しているため、アフリカ系、南アジア系が多い。一度航海に出ると9か月は乗船したまま休み無しで、下船後3か月程度休暇がある。船内では船長の権限が絶大であり、乗員や乗客がトラブルを起こすとすぐに下船命令が出され、たとえツアー客であっても島から自力で帰国することになるとのこと。
 船での生活は7:30レストランで朝食。9:30からジムで1時間ほど汗を流し、その後プールで泳いだり、ジャグジーに浸かって海を眺めたりして過ごし、午後、島に上陸して観光後、夕方船に戻る日程が多い。日本人も150人ほど乗船しているが、9割は退職後の夫婦で、みな朝が早い。早朝に日の出を眺めながら最上階にあるランニングデッキを歩くのは爽快なのだが、そこで会うのは日本人が多い。欧米人はバカンスの人が多く、年齢もバラバラで夜は10:00頃から翌朝3:00頃までダンスパーティなどで騒いでいるため、午前中はプールやジムは空いていて利用しやすい。

img-10-003.jpg  4日目は午後2時頃サントリーニ島に上陸した。大きな火山島が陥没して外輪山の一部が島になっていて300mほどの崖の下に港がある。崖上の市街地へはロープウエーかロバに揺られて登るしか方法はない。大型船は接岸できないため乗客は100人乗り程度の小型船でピストン輸送される。崖条例など無いのか今にも崩れそうな斜面まで住宅が貼りついている。建物はすべて白い漆喰で塗られ、窓枠や手摺は好みの色で統一されている。美しい白を保つためには漆喰を年に3~4回は塗りなおす必要があり、DIYでやっている人も多いようである。
 5日目はミコノス島に上陸。古い街のミコノスタウンは外敵の侵入を困難にするため道路は約2m程度と狭く、迷路のように作られている。

img-10-004.jpg  その狭い通路の両側に並ぶ真っ白な建物の1階には土産物店が並んでおり、観光客でひしめく通路を3輪バイクが荷物を運んでいく。人口は9000人程度だが、水源は無く、海水を淡水化して供給している。昼食は美しい海岸に並んだレストランでムール貝のワイン蒸しとシーフードのリゾット、地元の白ワインをいただき堪能した。(ムール貝12ユーロ、リゾット22ユーロは消費税24%を含む。1ユーロ=125円)

img-10-005.jpg  6日目はケファロニ島に上陸。1953年の大地震で島の8割の住宅が全壊し、当時6万人ほどいた住民はほとんどが島を後にしたがその後徐々に戻り、現在は4万人が住む観光地として復活している。その時の地震で鍾乳洞の天井が落ち、地底湖にそそぐ光で美しいブルーの水が生まれ、人気の観光スポットになっている。
 エーゲ海クルーズではいくつか島が現れてくるが、瀬戸内海ほど多くはない。7日目のドブロクニクに向けてアドリア海に入ると水平線まで船さえ見えないような光景が続き、バルコニーから眺めているとゆっくりと時間が流れているように感じた。
 クロアチアのドブロクニクは古い城壁に囲まれた世界遺産の街だが、ユーゴスラビアからの独立を巡る紛争による空爆で大きな被害を受けた。そこで観光バスが1回駐車するごとに3万円ほど徴収するなどで資金を集め、現在はほとんど元の状態に修復されている。今後も世界遺産の修復や保全に充てられているとのこと。

img-10-006.jpg  クルーズ最終日はベネチアに戻り、本島のホテルに宿泊してゆっくり観光となった。ベネチアはゴンドラで有名だが、その漕ぎ手は世襲制で、当初は貴族の使用人であったが、現在は1日に1000ユーロ以上稼ぐ高給取りになっている。サンマルコ広場にある一番古いビザンチン様式のサンマルコ寺院の内部は、すべての天井が金箔を施したモザイクタイルで仕上げられており、使われている金の総重量は4トンにも達するとのこと。当時のベネチアの絶大な財力と西洋の教会は100年以上をかけて建設するのが普通であるからこんな建物が存在するのだろう。

img-10-007.jpg  ベネチア本島は自動車や自転車の通行が禁止されていて、早朝に散策すると、物資を満載したボートが運河を行きかい、荷揚げされた商品どを手押し車に載せて店に運んでいた。本島の人口は、30年前は6万人ほどいたが、観光地化が進み、物価が上がりすぎたことで4万人まで減少しているとのこと。この島全体がかつては潟であり、天文学的な数の松杭が打ち込まれ地盤となっているとはとても想像できない。
 今回の旅で知り合った日本人のなかにはクルーズが3~4回目の人もかなりいて、乗船した最大クラスの船は24万トン、乗客6000人以上で設備も数段上とのこと。新型コロナウイルスの終息には時間がかかると思うが、またいつかそんな船でカリブの海へでも行きたいものである。

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