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地盤改良工法の開発について

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中島 徹
(株)コンパース相談役
(株)エルフ代表取締役

 ラップルコンクリートに代わるブロック状の 地盤改良(エルマッド工法)について、2009年3月(財)日本建築センターより建築技術審査 証明BCJ−147を取得致しました。
苦労話などを報告する機会を与えて頂いたことに感謝し筆を取ります。
最初に建築設計を本業としていた私が何ゆえ基礎工事(地盤改良)の施工をすることになったのか、その経緯を少し。

  昔、重量のある製品を造る機械製造工場の床版を設計していたときのこと、良好な砂礫(N値50以上)の支持地盤がGL−3m付近にありその上は軟弱地盤で単純な土間では設計できず、仕方なく支持杭を打ち地中梁でつなぎ、単純にスラブで設計し簡単に済まそうとしたのです。
しかし20トン超もある製品が移動するため、スラブは厚く梁は大きくなりとても不経済な設計になりました。原因は杭先端の支持地盤が良好で、杭の支持力が高すぎるからで、わずか3m下の支持地盤に力を流すため、地中梁を介して回り道させたのが原因です。「力は回り道が嫌い」なのです。そこで当時出始めの柱状地盤改良杭を3m前後のグリッドで配置し、地中梁をやめFEMを使いスラブのみで設計すると、すっきりした図面になり満足していたら、なんと柱状改良杭の値段が高く、PC杭と地中梁をあわせた金額をはるかに上回ってしまい、驚いたのと同時にどう考えても納得できない。

 泥にセメントミルクを混ぜて柱状にしたものがそんなに高いのはおかしと思い、知り合いの杭施工業者に相談したら案の定非常に安くでき、それに気を良くして柱状改良を設計に取り入れるようになったのですが、現場を見ているとそんなに甘い物ではないことを思い知らされることがたびたびです。

 そのひとつが地中障害物です。大きなコンクリートガラや転石、ひどいときは産廃が出たりです。それらは当然地表面から見えない、キリが途中で入らなくなるので、バックホーを用いて大きな穴を掘りそれら障害物を取り除き、選別した土だけを埋め戻し、再度杭芯を出し直して最初からやり直しです。

 そんな無駄な作業を見ているうちに、せっかくバックホーで穴を掘ったのだからその穴を埋め戻す時にセメントと水を加えてかき混ぜたらそれでいいではないか、と大胆にも考え始めたのがそもそものきっかけです。それからが苦労の始まりでした。

 攪拌混練するためのバケットを試作したり、市販品をさがしたり悪戦苦闘を繰り返し、おまけに固化対象の土はほぼ無限のバリエーションを持っているうえ、多量の湧水が出たり、産廃、油分を含んだ土など、なんでもありです。ひどい時には木造家屋一軒分とか自動車を解体したあとそっくり埋めてある土地も経験しました。

 しかし支持地盤を目視確認でき、また攪拌混練状態も目視しながら計器に頼らず改良体を造成できることに満足していましたが、ある時期から人の勘や目視よりも数値管理し、記録が残る工法が求められるようになってきました。抵抗しても時代の流れには逆らえません。

 ①バックホーに取り付けたバケットミキサーの先端がドロドロの改良体の中を移動し、その軌跡をオペレーターがモニターで把握し記録を残すことが要求され、さらに何をもって改良終了とするのかとの難題を突きつけられノックアウトです。

 そんな装置はどこの建機メーカーにもありません、しかし耐震偽装事件後はこれを解決しない限り、日本建築センターは審査証明を発行してくれません。

 バックホーにはブーム、アーム、バケットとある長さを持った可動部分があり、ブームとアームの角度はその回転中心に電気的に角度を読み取るエンコーダーが付いているものもあったが、バケットの回転中心は条件が過酷で繊細な弱電部品は取り付け不可能です。

 もし取り付けができたとしても回転角と可動部分の長さから演算するのではバックホー本体が作業中少し傾くとバケット先端では大きく誤差が生じます。

 必死に考えていると、ある時ふっと思いついたのです。

 可動部分それぞれに3個の傾斜計を付け地軸との絶対角を読み取り腕の長さからバケット先端位置を演算すればよいと。この方法の長所はバックホー本体が少々傾いても精度よくバケットの先端位置を特定でき軌跡も描くことが可能だ、と言うことです。

 更に傾斜計だから可動部分の回転中心でなく、どの位置に取り付けてあってもいいし、おまけに密閉した箱に入れておけるのでバケットと一緒にドロドロの改良体の中を移動させても十分耐えられる。これで何とか解決できました。

 ②については、改良体の中にセメント系固化材が均等に分散すると電気比抵抗値がほぼ10Ω〜20Ωを示すようになるとの知見を得て、センサーを自作しバケット先端に取り付け、移動軌跡上の抵抗値を色分けし、リアルタイムでモニター上に表示し改良終了の判断基準とすることにより何とか問題を解決できました。

 あとは攪拌羽根の回転数は近接スイッチで、回転トルクは油圧を読み取るなど既存の技術の組み合わせで十分でした。

 やっと建築センターに見てもらえる状態になったのですが、試験の為の供試体の採取を手でモールド管に詰めていたのも、作為性がありだめで、深度方向上中下三箇所を無作為に採取しなさいとのこと、これにも四苦八苦しながらやっと空気駆動のサンプラーを開発し、ぎりぎり審査にこぎつけました。

 宇都宮の関東ローム層での立会い試験も無事終了しセンター評定を取得できましたが一難去って又一難、解決しなければならない問題が立ちはだかります。

 センター物件はフレコン(トンパック)を使えずセメントミルクを注入し混練することが条件なのですが、現場にセメントサイロとミルクプラントを設置しなければならず、既存のシステムを使用すると大きなコスト負担となり小規模の工事にはとても適用できません。それではセンター評定を取得した意味が無くなります。

 どうしても超軽量で簡単に設置、撤去が可能なセメントミルクプラントが必須です。この開発にはほぼ10年かかりました。作っては壊しの連続で諦めかけた時期もあったのですが、技術革新しか我々零細企業が生き残る道は無いと念じて、やっと最近ほぼ満足のいくシステムが完成したところです。今後の課題は攪拌混練時に添加水量をできるだけ絞り固練りを目指すこと。またこの改良体を使った鉄骨柱の掘っ立て工法の開発、設計上は改良体と原地盤の複合した基礎をFEMで解析し、合理的な設計を目指すことも考えております。

 やりたい事はたくさん有りますが一歩ずつでも進んで行きたいと思います。



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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 武田美治

太公望

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㈳香川県建築士事務所協会賛助会
会員 武田美治
(武田建設株式会社)

 「釣り好きは短気」と言われる。狙っている魚が 釣れないと、場所を変え、潮を待ち、仕掛けを変え、 餌も変え、それでも釣れないと、竿を変え、リール を変え・・・。ずいぶんと費用のかさむ遊びである。 しかし、当の本人は娘の離乳食のためだとか、ばあちゃんにおいしい魚を食わすためだとか、勝手に思 い込んでいるので、罪悪感はない。いつからこんなにも釣りに" ハマッタ" のだろう。決して私の父が 釣り好きというわけではなかった。逆に父は殺生が嫌いだった。壇ノ浦の料亭で出てきた車エビを海岸まで持って行って逃がしてやったとか、加工場の鉄筋の上に糞をする鳩を捕まえては大歩危までトラックに積んで離してやったりしていたのをうっすら覚えている。思い起こしてみると最初の釣りの経験は、 小学生の低学年の頃、木太町にあった田んぼの用水路で手のひらぐらいの鮒を釣ったのが快感の始まりだったと思う。昔は雨が降れば現場を休むこともあった。小雨の降る、けれども明るい午前中、現場から帰ってきた親戚の小島鉄筋の社長に竹の延べ竿 (ガイドもリールもない先にテグスをくくりつけただけの釣り竿)を貸してもらい、加工場横の田んぼの畦でミミズを掘って釣りに行った記憶がある。もちろん今はコンクリートの用水路になっているだろ うが、50年近く前の田んぼの用水路は古き良き時代の趣があった。会社から歩いてすぐの場所だったと記憶しているが、着いてみると何人か釣りをしている人影があった。教えられるままに竿を川面にかざ し、精一杯の力を込めて竿を握っていたと思う。ウキが沈み、突然手のひらに伝わるブルブルとした感覚。忘れられない一瞬だった。 

 釣り好きのことを「太公望」というらしい。ネットで調べてみると、その昔、中国の渭水で釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えたという話に由来するとされるらしい。この故事にちなみ、日本では釣り好きを「太公望」と呼ぶ。江戸時代には「釣れますか などと文王 側により」という川柳も作られている。一方、中国で「太公望の魚釣り」と言えば、「下手の横好き」と言う意味が込められているという。小学生の時のこの経験が私を 「下手の横好き」にしたのは間違いない。 

 中学、高校と釣りには縁のない生活を送っていたが、たまたま知り合った友人が私に輪を架けたような「下手の横好き」だった。当時オキアミという南氷洋でとれるエビの冷凍が売り出され始めた。小学生の頃から、魚の餌はミミズだと思い込んでいたが、 この魔法のオキアミを岸壁からパラパラと撒きながら釣るとおもしろいように魚が釣れた。朝日町の突堤でチヌの入れ食い、庵治の河口でグレの入れ食い、 壇ノ浦の東岸でグレとチヌの入れ食い等々。高松周辺の釣り場はほとんど頭に入っていた。スズキの良く釣れるとっておきのポイントでは、「釣れますか」 などと人が寄ってきても、魚が掛かっているリールをフリーにして「いや釣れませんわ」などとやっていたと思う。 

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 釣り好きの私が就職したのは東京の同業大手。しかし赴任先は海の無い埼玉県。日曜日に釣り堀に行 くしか無いが、鮒なんぞは小学生がミミズでも釣れると思っていたから、馬鹿らしくて釣り堀には行く気がしなかった。入社して1年ほど経った時当時の 親方に誘われ、渋々近くの釣り堀に行くはめになった。餌はマッシュ(練り餌)。仕掛けの手ほどきを 受け、いざヘラブナに挑戦。しかし釣り堀の魚はスレていて(人間が釣り 上げては逃がすので) なかなか釣れない。いや全く釣れない。隣で近所の中学生とおぼしき子供がピシッと釣り 上げる。最初はまぐれ、 まぐれと思っていたが、三枚、四枚と差を付けられると「ウッ!」 と焦る。短気な太公望は仕掛けをいじり、餌の練り具合を変えて挑戦するが、隣の子供は順調に差を広げる。屈辱的な日だった。釣り 堀の親父がやってきてもニッカズボンにパンチパーマの作業員風には声を掛けてこない。 一緒に行った親方と二人ボウズで(一匹も釣 れないこと)退散した。 帰りの車の中で「中学生の持っていたウキがいいウキだった」とか 「ハリスが太すぎた」とか「場所が悪かった」などと言い訳してもやっぱり悔しい。帰りにはいつもの釣具屋で練り餌を何種類も買いそろえ、次の休みに備えたものだ。釣りは「ヘラ鮒に始まりヘラ鮒に終わる」と言われる。その後も何度も挑戦したが、2 年間でついに、くだんの中学生には勝てなかった。 何でもその釣り堀でも5本の指に入る強者らしい。 勝てない勝負は気が乗らない。埼玉の後半は、もっ ぱら一人で野池に通うようになった。もともと食えないヘラ鮒には興味が涌かないのだと思い込むよう にした。 

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 3年ほど海釣りに遠ざかっていたのだが、なにも埼玉で仕事と釣りばかりしていたわけでは無い。 ちゃんと結婚にもこぎ着けた。新婚旅行は言わずとトローリングのできるハワイとした。細君には申し訳ないが、新婚旅行の思いでは、一番は最初で最後 のトローリングだった。朝6時過ぎ、ビールやサン ドイッチを買い込みチャーターしたクルーザーに女房と乗り込んだ。船の名前は「KAHUNAKAI」な ぜか、未だに忘れない。狙うはマーリン(カジキマグロ)。あちらの小説に出てきそうな顎髭を蓄えた船長が固い握手で「グッドラック!」夢にまで見たマーリンに会えるのだと信じていた。これまで私は 船に酔ったことが無い。瀬戸内海はもちろん、室戸 岬沖のうねりの中でも平気だった。しかし、港を出 て1時間くらいでハワイ島は見えなくなり、360度の水平線。海の色は絵の具を絞り出したような紺碧。周りに舟影は見えない。当たり前だ、マーリンのシーズンでは無かったのだ。しかもハワイ沖のう ねりは半端ではない。3時間の容赦の無いローリン グで不覚にも完璧に酔ってしまった。心配なのは自分より船に弱い女房だ。フラフラしながら奥の女房 に声を掛けようとすると、えっ?涼しい顔でサンドイッチを頬張っている。こちらが声を掛ける前に「だ いじょうぶ?」・・・そうだ!女房はヨット部だったのを思い出した。それ以来未だに頭が上がらない。 大量に買い込んだビールは船長とクルーが旨そうに飲んでいる。その時だ、2本流していた疑似餌の一 つが「ジーッ」と大きな音を立てた。金髪のクルーは私にファイティングチェアーに座れという。カジキマグロ用の剛竿とペンの両軸リールを抱え込むよ うにして座り込んだ。いよいよファイトだ。鉄筋で鍛えた全身に力が入る。D51を持ち上げるほどの力を込めて竿を立てる。「あれっ?」何とも簡単に竿は90度に立った。夢にまで見たマーリンもこの程度であったか!クルーはさかんに「マヒマヒ!」「マ ヒマヒ!」という。ハワイ語ではマーリンのことを そう呼ぶのかと思ったが、なんとも弱々しい響きではないか、しかもえらくリールが軽い。クルーはもっ と早く巻けという。言われるままに100mほど巻き 取った時奥からあの船長がギャフ(魚を引っかける道具)を持ってきた。いよいよだと思った瞬間、船長が言った言葉を生涯忘れない。「アウチ!!!」私は そのマヒマヒの背中しか見ていない。船長がギャフ を打ち損なったのだ。すぐに呆然とする私の方を向 き返り「アイムソリー」それぐらいの英語は私でも分かる。しかし日本語の「なにやっとんや!どあ保」 がとっさに英語で出てこない。こんな事ならもっと真剣に勉強しとけば良かったと思ったが、とっさに出た言葉は「ノープロブレム」だった。情けない。 後で分かったが「マヒマヒ」は「シイラ」のこと。 そんなものなら小豆島でも釣れる。都合のいいこと に私が釣り逃がした魚を女房は知らない。その夜レストランで「マヒマヒのステーキ」を注文し、噛みついてやった。 

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 結婚後、長女が誕生して高松に帰った。ヘラ鮒もマーリンもいらない。やっぱり瀬戸の小魚が釣っても食っても最高だ。私は長女の離乳食をガシラの煮付けと勝手に決め込み仕事が終わってから、よく釣行した。ヘラ鮒ほど難しくないし、マーリンほど力がいらない。おかげで3人の子供は全員が魚好きになった。子供はどんどん成長し、ひとり、ふたりといなくなった。今はローリングにめっぽう強い細君と二人。釣りにもあまり行かなくなった。日曜日に近くのスーパーで買ってきた塩鯖が手軽でおいしい と思う。太公望は「下手の横好き」趣味として、たまに竿を担いで、気の合う友と気軽に釣行できれば満足。年を重ねると、もちろん体力は衰え、ゴルフボールも飛ばなくなっ た。味覚も鈍くなり、 目も薄くなってきた。 しかし小学生の時に初めて味わったあのブルブルとした快感は、今も全く変わらない。太公望万歳。 


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